2009.9.14


 友人の個展に行った。
来月からドイツに旅立つ彼にとって、
この展覧会は一つの大きな区切りとなるはずだ。

 どちらかというとカッチリ固めたコンセプトを重視した作品が多かった彼だが
今回は何だか様子が違う。
会場に入り作品が目に入ってきた瞬間にそう思った。
 キッチン用のアルミホイルを丸めて形作った西洋の騎士のような立体物が
無数にこちらに向かって進撃してくような景色。
それぞれ20cmくらいから大きいもので40cmくらいあるだろうか。
それが広い会場の床を所狭しと埋めている。
よくこれだけの数を作ったもんだと関心してしまう。
しかも一体一体をよく見ると作り込みもしっかりなされ
「なんかカッコイイやん。」って思ってしまうような作り。
「これは絶対本人もカッコイイと思って作り込んでいるな。」
というのがありありと伝わってくる。
 それは僕がまだ小・中学生の時に漫画のキン肉マンの影響を受けて
夢想に耽りながらオリジナルキャラをノートに描いて
眺めていた頃の自分を思い出すような感じ。
そういうある種の超個人的なフェチズムがその立体の細部から発せられている。
 そのカッコよくて強そうな騎士たちは金属で出来ているにも関わらず軽くて脆い。
だからか、会場全体を埋め尽くすような数にその細かい変質的ディティールは
アルミホイルの光とともにかき消される。
そのアルミホイルの光は軽さをもち、その軽さはフラットで颯爽として心地よい。
これが今時の既成のフィギアなどを使った作品ではなく
オリジナルの造形だということに共感をもつ。

そういう時間的(まさに今という時間)にまた空間的(彫刻としての空間)
にも相反したものを同時に抱えている。

 作家自身はこの造形物をまさに子供の時から作っていたというのを後で聞いた。
しかしこのあまりにも身近すぎる行為が作品になるなんて一切考えたことがなかったらしい。
それが作品になったのは人との出会いによるものという話。
一番身近な人が日常的に作品を作っている姿に影響されたからという。
今までの自分の作品の作り方。
展覧会に合わせてコンセプトと製作工程を考えるという方法。
その方法に疑問を感じたから。
子供の時から何気なく作っていたもの。
それが自分の中で新たに発見された。
それを改めてただ毎日作っていく。
そうやって出来た作品。

 作品が作家自身の奥深いところから出てきているのを感じる。
と同時にすごく突き放して遠くから眺めて作っているのも感じる。
だから作品自身がモノを言い出している。
広いところ・浅いところ・狭いところ・深いところ、どこからでも
いくらでも何か意味を読み取れる。

 作家が自分自身を見つけて0の地点に立てたこと。
深い自分への肯定。それが作品として昇華されたこと。

 たぶん日本に居続けようが、ドイツに行こうが、何も変わらないだろう。
けど今の彼はこの作品で自信を持って0の地点に立てた。
自分が自分を発見した、そのタイミングで今までと違う環境で
新たにスタートをきれるなんて

なんと羨ましい・・・。


2009.9.7


 オーディオラックを設えて機材を部屋のサイドへ移したのが功を奏したのか、
最近我が家の音が日に日によくなってきている。

 先日、遊びに来てくれた桃さんも我が家の音のことを
「肉の喜びと風の喜び」と言って褒めてくれた 。
「肉の喜び」とは、例えば歌手の声の生々しさとか実在感、
楽器の演奏の生々しさとか音色のディテ ィール。
「風の喜び」とは、演奏会場のリアルな情景というか
空気感みたいなものが部屋に充満している様子のことだろう。

 ふだんの桃さんのオーディオは5万円くらいのスタジオモニターだったと思う。
一般的な人の感覚では、それでもちゃんと「オーディオしている」。
 フランスに住む桃さんの周りにはクラシックが好きな友達が多く、
中にはクラシックの評論家や演奏家もいる。
が、フランスの友人の中にちゃんとオーディオしている人はほとんど皆無みたいだ。
その友人の一人が最近クラシックのCDばかりをトータル6,000ユーロも散財したらしいが、
その人も使っているオーディオは小さなラジカセらしい。
また別の友人の中には最近は家で音楽を聴かなくなっている人もいると言う。
家で音楽を聴いても楽しくないから。
それはもちろん使っているオーディオがラジカセみたいなものだから
という理由も大きいと思うと言っていた。
 それでもフランスはまだ良い。コンサートも頻繁にあるし、
チケットも高額というわけではない。質の良い演奏や音に触れる機会を求めれば
それなりに出会える。

 音楽好きとはソフトを多く集める人のことで、それを再生するオーディオを
良くすることとは結びつかない。
それは日本でもフランスでも同じらしい。
音楽好きが、音の「肉の喜びと風の喜び」が家で味わえることは、
そういう意味でもすごく贅沢なことだ。
ただ音楽好きに、音の「肉の喜びと風の喜び」ということ自体が知られていないだけ
ということがある。
 6,000ユーロのうちの1,000ユーロも出せば、「肉と風の喜び」で音楽が聴けるのにな
と思ってしまう 。


2009.8.29

 ある出会いから今新しいスピーカーの設計に夢中である。
一流を知る人だから、僕もそれに応えたい。
彼のつくったものを観たり、書いたものを読んだりしながら、
その世界感を僕なりに吸収し理解する中で、今僕の中に新しい価値観が醸成しつつある。
それは今までの僕の価値観をさらに推し進め、あるいは深め、また広げてくれる。
 たった1時間にも満たない人との出会いで、僕はまるで長い旅の途中かのように
日々多くのことを学び成長つつある。
そんな広い世界を知る奥深い人との出会いは、それ自体が旅になるということを知った。

 新しいアイデアがどんどんと湧いてくる。
僕自身がどんなスピーカーができるのかに期待しながら、ワクワク・ウズウズしている。


2009.7.31

 うちはリビングにクーラーがないので窓を開けて毎日音楽を聴いているんですね。
この季節は鳥の声だけでなく蝉なんかの虫の声もよく聴こえてきますね。
気のせいか、奈良の蝉は大阪の蝉に比べるとあまりうるさくなく、
落ち着いているように思うのですが・・・?

 ところで、音楽の分類の仕方はいろいろあると思いますが、
部屋の窓を閉め切って、外からの雑音を排除して聴きたいと思うような音楽と、
それとは逆に外からの音と一緒に聴いているのが気持ちいい音楽ってのの
2種類の分類の仕方もあるって思います。

後者の方の音楽ではこの人の音楽がすごく気持ち良いです。
http://www.thrilljockey.com/artists/?id=10008

シカゴのポストロックバンド「トータス」のベーシスト、
ダグラス・マッカムのソロ名義の作品です 。

 ちなみに一般的なオーディオマニアって、二重・三重の厳重な防音・遮音対策をした
専用部屋を造って、そこで思う存分大音量を出し、一人で音楽を聴くのが夢とかなんとか、
そうらしいんで、こんな音楽の分類の仕方はオーディオマニアには多分ないんでしょうね。

 もちろん窓を開けて音楽を聴くのには近所迷惑にならない音量ってのも
考えないといけないのですが、なにより虫の声の音量は調整しようがないので、
オーディオの方の音量を調整して、両方がほどよく溶け合うような音量にしています。
そうすると自然と音量も控えめなものになりますね。

 そういえば先だって地元の美術館で観た、上村松園の「虫の音」という作品は
まさにこんな音楽の楽しみ方をそのまんま絵にしたというような作品でした。
三味線を弾き歌う人と、それに背を向けて縁側に座る女性たち。
この三味線の演奏者も多分、外の虫の音に合わせて演奏しているのでしょう。
この縁側にいる女性たちは演奏を真剣に聴きもせずに背を向けて失礼だとか、
音楽に対して無知だからとか、そんなんじゃなく、演奏者の意図を十分に汲み取ったゆえの
この態度なんだと思います。

作者の本当の意図は知りませんが・・・。

 そういう観かたをすると、こんな音楽の聴き方も全然特別なことではなく
日本人の昔からの音楽の楽しみ方なんでしょうね。


 今まで夏は何かとうるさいとか、不快とか、感じることが多く、
静かな冬が好きだったんですが、こうして音楽と一緒に過ごす夏も
結構良いものだと改めて見直してるとこです。


2009.7.25

スピーカーの測定と調整を終えて

 EQ・クロスオーバー・ゲイン・極性・タイムアライメントなどの各特性を変え、
周波数の変化をPCのモニタで確認しながらその変化を聴感でも確認するという作業の繰り返し。
グラフがフラットに近くなると出てくる音は面白くない音になったとか、そんなことはない。
やはりというか、音は僕にとっても自然な響きに近づいていくように感じた。
といっても最終的にはグラフが上から下まで全くのフラットになったというわけではない。
もちろん調整前よりもフラットに近づいたのは確かだが。
結局僕が行ったのは何が何でも周波数特性をフラットにするということではなく、
出来るだけ少ない数値の変更でグラフも聴感もフラットにもっていくという作業。
主観の客観的裏づけとしてグラフを見ているという感じ。

 測定しEQなどで調整するというのは、やはりスピーカー本来の力を発揮させてやることに
なるのだろうと思う。特に自作スピーカーの場合、あらゆる特性を最適に調整した後、
自分が作ったスピーカーの本当の個性が見えてくるのかもしれないと思った。

 今のシステムは足りないと思うものを思いつくままに継ぎ足していったような
オーディオシステムになっているが、何でも足していけば正比例的に音が良くなる
ということはなく、足したものをシステム全体にうまく馴染ませなければそれが逆に
致命的にシステム全体の足を引っ張ることになる。
それには今回のような測定という客観的な手段が結局は近道になるようだ。

そしてこれで一応調整終わりと決めたこのシステムの音は一言で言って"自然"だ。

 どれくらい自然かというと、窓を開けたリビングで音楽を聴いているのだが、
四方からの蝉の声と部屋の音楽の音が混ざりあって聴こえ、意識は外と内の境界を忘れ、
そしてそこには静寂も同時に佇んでいるということが分かるくらい自然だ。
リビングから見える景色、庭に生えている百日紅の花のピンクや松やら雑草やらの
薄い緑が目に心地良いと感じる。

これが僕の求めていた音なのか?
これが僕にとってのいい音ってものなのだろうか?

改めていい音って何だ?という疑問。

 毎日食べたい我が家の味とか、例えるならそんな答えになるのかもしれない。
インスタント食品みたいに人口調味料のような味しかしないものは僕は毎日食べたくない。
一口食べて「これはすごい!」って思うようなゴージャスでディープな料理でも
毎日食べ続けれるのは胃がもたないだろうなぁと思う。
といって、素材の味だけしかしないような料理もそれがいくら体に良いからといって
我慢するように毎日食べ続けるのも嫌だ。
この”いい音”ってのは僕にとって毎日飽きずにおいしく食べれるだろう
と思うような料理みたいなものであって人それぞれ味の好みが違うように、
音も人によっていろいろと好みが違うのだろうと思う。

僕にとっての好みの音とは?いったいそれが本当に"いい音"なのか?

 いかにも「スピーカーから音が出てます!」という音に違和感をおぼえることが多い。
スピーカーから出た音がスピーカーのことを考えるのを忘れさせてくれるような
音が出れば最高だと思っている。
そんな禅問答みたいな音を求めているからだんだん難しくなっていくんだな。

 シンプルで高性能なシステムがほしい、と今回の調整の途中本気で思った。
なんの不信感も持たず何年も掛けて思いっきりぶつかっていけるような本物のスピーカーと、
どんなスピーカーも鳴らしきるアンプと、大袈裟ではないが質の高いCDプレーヤー
とアナログプレーヤー。
シンプルな構成であるが、実際にそろえようと考えるとすごく贅沢で夢のようなシステム
になるはずだ。
 けどオーディオって趣味はどんな機材を使ってもいきなり山の頂点に立てるような
趣味じゃないということも薄々分かってきた。


2009.6.20

帰国後、ヘルシンキの街の印象

 今回の旅で2人で撮った約3,700枚の写真を見返していて気付いた。
建物によく使われているグレーがかった薄いブルーは、あれはヘルシンキの空の色なんだと。
あの街自体の色合いは空の色に合わせているのだと気付く。
街の色が空からきて、それが街の人の気持ちやテイストに結びついているのだと気付く。
その場所の自然からその国の美意識が生まれているのだということに改めて気付いた。

 身の回りのことすべてが僕たちの作るものに影響すると考えると、
僕たちがするべきことは無限にあると分かる。そこにはモノ作りにおける矛盾が一つもない。
日々を丁寧に暮らしていくということ、それ自体が僕たちの制作行為そのものだということ。
それには当たり前のことをゆっくり丁寧にやっていけば良いということだと思う。
日々心地良さを求めながら丁寧に生活するということ。

 それにしても旅は良い。
旅は気付きをもたらしてくれる。身体を通して直接重要な何かを教えてくれる。
それを毎日丁寧に振り返ってじっくりと考えること。
気付きは日々新しい経験によって記憶に上書きされていく。
日々の気付きは、それが新鮮なうちに一人で落ち着いて記録していくこと。
それなくしては気付きは結局自分のものにならないということ。

 日本に帰ってきた今、この旅で書きもらしていることがまだまだ沢山あるような気がしている。
ヘルシンキの街の魅力については全然書き足りていない。
そして何か重要な気付きをもうすでにいくつか忘れているような気がしてならない。


2009.6.16

ヘルシンキのオーディオショップ。

 Cyrusという見たことのないメーカーのアンプと、
Usherというアジアのスピーカーブランドの組み合わせの音を聴かせてもらう。


一聴して高域の美しい涼やかな音にハッとする。まさに北欧のイメージそのもの。
それが押し付けがましくなく、低域もすっきりとしたハッタリのない音という印象。
もしかしたらこの音がこの国の"サウンド・アイデンティティー"というものかもしれないと感じた。
それはこの国で見てきた多くのデザインと共通するものであったから。

旅の終わり

 本当のおしゃれさについて。
ここではデザインへの関心がすごく自然にある。背伸びしない感じ。
それは自然に心地良さを求めた結果として、生活の中のデザインが洗練していくということ。
生活の心地良さとはけっして"便利な生活"を求めるということでないということ。教育の必要性。


2009.6.15

ヘルシンキ デザイン会社訪問

 ・TANGO  ・KING ・Hahmo 
この3社はストックホルムで訪れたほとんどのデザイン会社の特徴であった、" ストイック " や
" シンプル " なデザインではなく、とにかくデザインを楽しもうというスタンスを感じた。
" ストイックさ " や " シンプルさ " はデザインのひとつの道具として適材適所で使うという感じ。
クライアントの要望やマーケットリサーチをしっかり取った後、そこにデザインの " お楽しみ " を いかに練り込ませていくか、そういったことを常に真剣に考えているのだと思う。

 1社目のTANGOのフルーツジュースのパッケージでは、
一般的でややクラシックなデザインの上に太い黒マジックで落書きされたようなデザイン。
それは日本ではたぶん出来そうで出来ないように思う。ティーンエイジャーを狙ったデザイン
とのことであったが、全世代のデザイン好きを狙ったものだと思う。


 2社目KINGのCarParkという駐車場会社のCMでは、路駐の車にたいして、
大量の鳩のフンの被害に合うことや、上からテレビが落ちてくること、
最後は車のボンネットの上でセックスするカップルまで出てきたりで、
かなりギャグだ。それを暗めの映像にシリアスなBGMを使って映画的に演出していた。
 また銀行のメインイメージに、トップセールスマン風の賢そうな赤ちゃんが使われ、
キャッチコピーが"生まれた時から天才"とのこと、これもギャグだ。よくこれが銀行なんて
お堅い企業に採用されたなと驚いてしまう。どれもこれもユーモアで人を魅せてくる。


 この会社は創業からたった5年で急成長し、今や国内でも5本の指に入るような
デザイン会社であるということらしい。

 3社目のHahmoは女性が創業者。ここでは女性らしい可愛らしさやおかしみ、
そこからくる親密さがデザインのすべてに滲み出ている。
ここも自分たちのデザインアイデンティティーを確立しているのだと思う。


 デザイン会社自体に何かそれぞれの色を持っている。それぞれのブランディング、
そしてこちらで初めて知った " ブランド・スケープ " という言葉。 とにかくそこにあるもの
一個一個すべてがその会社のブランドイメージを示すものになっているということ。
オフィスそのもの、働いている人の雰囲気やインテリア、装飾、キッチン、会議室・・・etc、
そのどれもが出来上がってくるデザインに反映されているという共通点をすべての訪問先で
感じた。
 僕たちsonihouseにもそれがすでにあるような気がする。しかしそれをまだはっきりとした形では 僕たち自身が捉えきれていないのかもしれないというもどかしさも感じている。 


2009.6.14

ヘルシンキ到着

 ヘルシンキの街はストックホルムとはまた違った趣。
建物がどれも本当に " おしゃれ " 。ここでいう " おしゃれ "というのは
" スマート " とか " シャープ " などではなく、どことなく " 愛嬌 " を感じさせるおしゃれさ。
それは独特なグレーが混じった薄いパステルカラーの建物が多いからとか、
窓枠が木でできてるからとか、窓枠が普通より細いものが多いとか、
そういった古い建物でありながら、どこか現代的なテイストを感じさせるデザインの細部が
あるからなのかもしれない。そういう細部への愛情を感じさせる街の風景が
この心地よい " おしゃれさ " を醸し出しているのだと思う。


 そしてヘルシンキっ子もストックホルムっ子と同じでとてもフレンドリー。
1日滞在しただけでこの街がすごく気に入った。
ただストックホルムと違ってなぜか路上にゴミが多い、
このあたり、スウェーデン人とフィンランド人で何か特性の違いが出ているのだろうか。

 バスで街を観光する。
有名なテンペリアウキオ教会は岩をくり貫いて建てられた教会。
ここでも20分ほど録音した。入って初めの印象はすごく"モダン"な印象であったが、
巨大な岩の重い存在感からか、とても落ち着いた空気を感じる。
天井の銅線を巻いていって仕上げたという円が広がっていく装飾は
眺めていると何となく意識が集中していくように感じる。
内部は天井から光が多く差込み意外と明るいが、それが意識を散漫にするようなことはなく、
教会という " 信仰 " や " 敬虔 " 、そして " 荘厳 " といった雰囲気を色濃く漂わせていた。
あれだけ観光客が押し寄せて来ているのに、
それを保ち少しも失わないというのはかなりすごい空間だと思う。
伝統的な教会とは全く違う内部構造だが、これを設計した建築家の信仰心というものを強烈に感じた。 形骸化した " 教会 " よりも強く " 神 " の存在を感じることができる空間だと思う。


 そしてヘルシンキからバスで1時間半ほど離れたフィスカス村では地元の工芸品に多く触れれた。 木をシンプルで贅沢に使ったデザインは、" これぞフィンランド " という感じ。
小枝を使ったり、ネコヤナギの枝をそのまま使ったデザインはデザイナーが本当に
自然を愛しているというのがヒシヒシと伝わってくる。
家具職人で友人のトンさんもそういった部分で共感できるのではないかと思うので
是非ここに来ることを薦めようと思う。


 夜は街の中心部の大聖堂でパイプオルガンとトランペットの演奏を聴く。
パイプオルガンの強烈な低音を初めて体験できた。ここでもまるまる演奏を録音してきた。
ここで録れたパイプオルガンの神聖な響きは一生の宝ものだ。



2009.6.13

買い物

 参加者の物欲が凄まじい。
買い物の後、バスでは自然と話はお互いに買ったものを報告し合うことになる。
お互いに物欲を刺激し合っているよう。
僕もなぜか人が良い買い物をしていると羨ましくなってしまう。
普段忙しすぎて、皆買い物する機会がないからここで何かが爆発しているのだろうか。

 ストックホルムからヘルシンキへ
豪華客船シリアラインで移動。
食事はビュッフェ形式であったが、料理の内容や味はかなり本格的。
ムール貝を7個も食べた。初めて食べたが蛎に似ている。なにかソースがかかっていた。
うまい〜。 ここぞとばかりにキャビアもサーモンもどっさり食べた。
船窓からはいくつもの小島が見えた。この辺りは別荘地になっているとのこと。
それをゆったりと眺めながらワインと新鮮な海の幸。


死ぬほどリッチな気分になった。明日死ぬかもと思った。


2009.6.12

 日本からネットで予約したストックホルム・コンサートハウスでのクラシックコンサートに行く。
演目は以下(スェーデン語)

KUNGLIGA FILHARMONIKERNA
Dirigent John Axelrod
Lang Lang piano

Beethoven Leonorauvertyr nr 3
Stravinsky Eldfageln-svit (1919)
Brahms Pianokonsert nr 1

 会場では空いている席がないくらいの超満員で、ランランの国際的な人気の程を実感する。
ホールの響きは少しデッドな気がした。バイオリンの響きが少し小さい気がする。
しかし低音楽器の音の輪郭は鮮明で下まで伸びた音。
オーケストラの演奏もカッチリとまとまっていて、
それはまさにストックホルムの街の印象と重なるような " 節度を守る " という印象。
それは僕にとってけっして退屈だということではなく、やはり " 心地よい " という感覚。
とても素敵な演奏だったと思う。
 それに対してランランの演奏は技術的な余裕からか、感情過多気味な演奏で、
ちょっと間違えると " 演歌 " になるという印象。
ただオーケストラとの合奏部分ではしっかりと合わせてくるあたり本当に巧妙なテクニックだと思った。
テンポ・音量・間とどれをとっても大胆に変化させてくる。
 僕は内心「こんな演奏はストックホルムの人たちも気に入らないだろう」と思ったが
全然そうではなかったことに驚く。
 ランランはやはり中国の英雄になっている。
演奏後、ストックホルムの観衆は皆スタンディングオベーションで彼の演奏を讃えた。


 音楽というものが立体的な構造物だということを改めて感じた。
" 時間軸を持った構造物 "。立体的な変化。
感情的な部分ももちろん刺激されるが、それよりももっと音の立体の変化というものを
すごく感じた。広い空間を巨大な構造物が様々に変化しているよう。
これこそが音楽の醍醐味だと改めて感じた。
 それをオーディオで再現しようとすると生半可ではない。


2009.6.11

ストックホルム デザイン事務所5社を訪問

 会社の規模は50人くらいまでの小規模な会社ばかり。
しかし取り扱うクライアントはH&MやIKEAなどの規模が大きいものが多い。
例えば4社目のAmoreでは牛乳パックなどのテトラパック、9種類で合計約100アイテムの
デザインを開発から納品までをたった1人で約7ヶ月間かけて仕上げたとのこと。
それでもその担当者は開発期間が長く掛かってしまったと言っていた。まさに少数精鋭。
 午前中に回った3社はデザインのテイストが少しずつ似ていたような気がする。
それは分かり易く言うと " シンプル & クリアー " というもの。
どの会社もオフィスでの仕事環境がすでにその会社のデザインを表しているかのよう。
それも " シンプル & クリアー " 。
特に3社目のBVDでは、社員個人個人の服装からしてBVDのデザインと共通したものを感じた。


 2社目のSDLはわりと伝統的な建物で、その最上階とその下のフロア全部を使っている。
最上階では天井がガラス張りで空が見える開放的な環境。屋上のテラスにも出れて、
そこからの街の景色も素晴らしいという本当に贅沢な仕事環境であった。


日本から一緒に来ている大手企業のデザイナーからは、彼らの仕事環境を見て
一斉に大きな感嘆とため息を漏らしていた。
このSDLはビネチア・ヴィエンナーレの会場サインやカタログなどの仕事などもしていて、
デザインのコンセプトやビジュアルも少しアート寄りのデザイン会社だった。
すごく " 今 " を感じさせる勢いのある会社だ。


 3社目のBVDは女性2人が代表。どことなく社内の人間関係がうまくいっていそうな雰囲気。
オフィスはどこもかしこも真っ白なモノトーンだが、建物自体が古いレンガ作りの倉庫を改装
したものだからか、すごくアットホームな空気に溢れている。
彼らは今回僕たちが訪問するということで、ウェブサイトにも日本語のページを用意したり、
入口で社員揃って握手で出迎えてくれたり、そしてプレゼン終了後はスウェーデンのお酒や
小さな料理なども用意してくれたりなどなど、とにかく日本から訪問した僕たちを精一杯心から
" おもてなし " してくれた。
 そんな彼らのデザインはまさに " シンプル & クリアー " を代表したようなもので、
少しそれを押し付けてくるようなところも若干感じる。
それは自分たちのビジュアル・アイデンティティーが相当強固に出来上がっているからだと思う。


 4社目のAmoreは驚いたことにオフィスが廃業した銀行ということで、
まずは天井が高くスぺースが広い。ものすごく豪華でアンティックなシャンデリアや
アーチ状の大きな窓枠が印象的。始めの3社とは雰囲気が少し異なる。


 デザインコンセプトは " Love at the first sight " ということで " 一目惚れ " という意味。
その表現も今まで訪ねたデザイン会社とは一線を画す。
全体に遊び心や余裕を感じさせた。デザインも仕事環境も彼らはその遊びや余裕を表現することに
命を賭けているのではないかとすら思った。
デザインした商品の中にコンドームやバイブレータや紙タバコがあることを若干自慢気に紹介していた。
空間は広くリッチな印象だが、人間関係は結構サバサバしていそう。
" 男性社会 " 的なニオイを感じた。

 5社目のDolhemは、フランス人男性が経営していて、オフィスは何となく
ビジネスのニオイがプンプンしている感じ。
オフィス内に商談用の個室が2つあったり、ラグジュアリーなインテリアがあったりなど。

 そしてどこのオフィスもキッチンがしっかりとあるということ。
食事でスタッフの横のつながりを保とうとしているのだと思う。


オフィスといっても仕事だけをするのではなく、そこでスタッフ全員が
一日を過ごすスペースでもあるということを一番に考えている。
仕事をするスペースはシンプルに、それ以外のキッチンや会議などで
みんなが集まるスペースにどこの会社もわりと力をいれているような気がした。
仕事以外の部分を全力で楽しむ雰囲気。外部から来た人間が自然と
この会社と仕事をしたいと思わせるような雰囲気を持たせているのだと思った。


2009.6.10

ストックホルム2日目

 午前中市内をバスで回る。町並みは他のヨーロッパの国々と似ているような印象。
50〜60年代に当時建築のトレンドであったガラスやコンクリートを多用した
ミニマルなスタイル(マッチ箱のようなと言っていた)な建築が増えたらしいが、
それを今は市民がこの街に不似合いだと猛烈に嫌い、それを反省して、
古い昔ながらのスタイルの建築を国や市民が守ろうとしているとのことだった。
 それを聞いたからではないが、この街ではやはり全体的に過激さをできるだけ排除し、
調和のみを求めているような気がした。
調和を求めるからこの街の人たちは大人しいのではないかと思った。


 そんな中、驚いたのはこの時期ちょうど高校の卒業シーズンらしく、高校生が大きなトラックに大勢で乗り込み、大音響で音楽を流しながら、ワーワーキャーキャー叫びながら 街を練り回っていたことだ。やはり若者にはこの街はもの足りないのかもしれない。
 そんな街を練り回るトラックを見て市民は一緒に喜んでいる風でもなく、怒っている風でもなく、 どことなく迷惑そうに見て見ぬ振りををしているかのように淡々としていた。
日本ならすぐに警察がとんできそうなものだが、こちらではそういったことはなかったのが不思議であった。 それだけこのシーズンは彼らにとって特別なものなのであろう。


 おしゃれ雑貨屋さんにも入ってみたが、ほとんどすべて日本でも見かけたことがあるようなものばかりで これといって新鮮さはなかった。そういう意味では日本の北欧デザインブームというものがどれだけ隅々まで浸透しているかに驚く。
 日本人が北欧デザインを好む理由とは?北欧人と日本人のテイストの共通点とは?
ここでも日本のデザインアイデンティティーとは?と改めて考えてしまう。


2009.6.9

出発、そしてストックホルム到着。

 前日は妹のアパートに泊まらせてもらう。
泊まりに行くことを忘れていたらしく迷惑をかけてしまった。

 滞在中はコングレスにも参加するが、コングレスでは
パッケージデザインワークショップも行われると聞いて驚く。
プロに混じって一緒に製作すると思うと自信はないが楽しみでもある。

 コンペンハーゲンの空港で飛行機の乗り換え。30分ほど空港内を録音した。
空港では人がそれなりにいるのに人気がないように静かだったという印象。
デンマーク人は落ち着いている、もしくは大人しい人種なのだろうか。
やはりデザイン先進国なだけあって空港内のデザインも洗練されている、というか
" こなれている " という印象。そう目を引くようなものはないが
全体としてまとまっているというか、バランスがいい、破綻がないという感じ。

 ストックホルムに到着する。白夜というものを初めて実際に体験する。・・・すごい。
今は9時を回っているが、まだ空は十分に明るい。
時差ボケもあるからまだこの状況を理解しきれていなかもしれない。これが日常にある
というのは、北欧の人間と僕たちとはかなり違う性質をもったものになるような気がする。
昔、静岡に行って富士山を毎日見ながら生活をしたら何か違ってくるような気がしたように、
いやそれ以上に何かしらの影響がありそうだ。


 夜食を買うためスーパーに出かけて実際に北欧のパッケージデザインに触れた。
やはり一番に気づいたのはデザインに " 節度 " があるということ。
パッケージとして他の商品より目立たないといけないはずが、商品棚に収まった時に
他のパッケージとまるで調和を保っているような感じがした。
それぞれのデザインが行き過ぎたり、足りなかったりしない。
回りのクオリティーと良い意味で同じレベルを保ち合っているという印象。それはまるで
コペンハーゲンの空港で人がいるのに全員が静けさを保ち合おうとしているかのような、
それと似ているような気がした。


 日本では同じような商品でも、となりのものと明確な差別化を図ろうとする。
それはもちろん当然のことに思う。とにかく目立てばいいというようなケバケバしいものや、
極端にシンプルにして逆に目立とうとするものなど。
結果的に商品棚を全体として見た時にバラバラな印象となる。
それは日本の現在の一般的な町並みに似ている。
モダンで洗練されたものもあれば、その隣りには似非ヨーロッパ風の安っぽい外観のもの、
そして昔ながらの日本家屋がその隣りに続くというような。
それらを全体として眺めて確かに興味深いと思うところもある。
しかし実際には馬鹿っぽいし、 " アグリー " 以外のなにものでもない。
何かそれは、もしかしたら " 自分がいる国とは " というアイデンティティーに対しての
意識の違いがあるかもしれない。
" 金儲け " をまず枠の外に置いておいて、自分の国が持つ美意識とか、
そういったものをこちらの国ではデザインする一番最初に持ってくるのかもしれないと思った。
そういう意味ではいわゆる " 世界のトレンド " という言葉の感覚は実は日本と北欧とでは
全く違った受け取り方をしているのではないかと思う。
例えばアスクルのように日本の企業が北欧のデザイン会社にパッケージを頼む場合と
北欧の会社が逆に日本のデザイン会社にパッケージを頼む場合の意識や意味は
全く違ったものになっていそうだ。

 日本は文化の模倣と否定の繰り返し。デザイン的なアイデンティティーを持つのは難しそうだ。
その点では中国は日本との共通点がありそうだ。
過去に自国の文化を否定したという点で。


2009.6.8

 明日からの北欧行きに期待するのは、やはり当地の " モノつくりの心 " を知るということ。
帰ってきていきなり僕のデザインセンスがグンと上がっているわけはないが、
何か向こうで今後の製作のヒントになるものを得たいと思う。

 今僕が当地のデザインで持っている印象は " ビビッド " で " スマート " 、
かなりシャープなデザインという印象を持っている。
それは訪問予定先のデザイン事務所各HPを見ての印象。
それと対照的に伝統的なインテリアデザインは贅沢に木という
素材を柔らかい曲線で仕上げるという暖かみを感じるデザイン。
それが両立する日常のデザインというものが垣間見れるかもしれない。
彼の地の空気に触れることで、その感覚が自分の中に浸透してくることを若干期待している。

<ストックホルム訪問先>
Silver http://www.silver.se/
SDL http://www.stockholmdesignlab.se/
BVD http://www.bvd.se/
Amore http://www.amore.se/
Dolhem http://www.dolhemdesign.se/

<ヘルシンキ訪問先>
Tango http://www.tbwa.fi/?page=phs
King http://www.king.fi/
Hohmo http://www.hahmo.fi/
Win&Win http://www.winetwin.fi/


2009.3.24

万平さんがデジオを開局したようです!
万平メモとはひと味違った空気でお届け。眠れぬ夜長に是非どうぞ。

和尚さんの「デジねは


2009.2.21

山下和美 「 不思議な少年2 」を読んでいたら、こんな言葉がでてきた。

「私は知らないということを知っている。」ソクラテス

ソクラテスって名前は確か聞いたことがある。
いや確かに知っている。
これって「無知の知」ってやつでしょ?

未知の可能性と諦観を同時に意味する、相反する永遠の運動。

「人間なんて何万年たとうと基本的にそんなに変わらんだろう。」
ってこの漫画に出てくるソクラテスが言っている。

そうか、人間は変わってない。

けど世界は狭くなったし、時間は短くなった。
と思う。


2009.2.2

世界が混沌としていく中、
アメリカ大統領のことといい、アイスランドの新首相のことといい、
涙が出そうなくらい嬉しいと感じる変化もある。


2009.1.29

人に期待されていると感じると素直に嬉しいと思う。
しかし人に期待されることをこちらが望んではいけない。
ただ許されているのは没頭することだけだ。

当たり前のこと過ぎて恥ずかしいくらいだが、とても難しいことだと思う。

自分への戒めに。


2008.11.18

いろいろと仮説というか、まとまらないもやもやしたものを書き留めてみる。

ちょっとブレイクダンスの練習を始めてみた。
30分ほどで汗だくになった。
練習していると体が思うように動かないことに気づく。
単なる運動不足だからじゃなくて、重力が邪魔するからだと思ってしまう。
僕たちは重力から逃れられない。
スポーツ全般が重力と身体との関係の問題を扱っていると思う。
武術の達人は魚の動きに己の技の向上のヒントを得ると言うが、
それは魚が重力から逃れられているからだと思う。
"軽さ"を感じる時、美しさも同時に感じていることが多い。
そういえば"スピード"にも美しさを感じることがある。
"重力"と書いて"動"という字になるのはそういうことかと思い至る。
重力は動くことによって感知される。
ということは重力は時間と空間の総体ということになるのだろうか?


2008.11.16

友達にオーディオを揃えたいと相談された。
とりあえず、プレーヤーはiPodやPCを使うとして、スピーカーとアンプを探す。
アンプには最小限の予算で、スピーカーには伸びしろのある、
永く使い続けられるものを選びたいと思っている。

ところでイギリスはスピーカーの国だと思っている。
ROGERS(ロジャース)をはじめとしたBBCモニターの系譜、
KEF(ケフ)・HARBETH(ハーベス)・SPENDOR(スペンドール)。
スピーカーの新旧の大御所、B&WとTANNOY(タンノイ)
そして僕の憧れであるQUAD(クォード)。
イギリスにはこういった伝統のある偉大なスピーカーブランドが多い。

最近行ったオーディオショーでもHARBETHの音は特に良い印象が残っているし、
僕の友人はKEFを使って良い音出している。
アンナさんが使っていたB&Wのエントリーモデルも良い音だった。
そして何よりオーディオの達人山本さんはROGERSが大好きで、
達人のスタジオで小さな"LS3/5a"がスケールの大きな再生で闊達に鳴っているを聴いている。

そんなことを考えながらまるで自分のスピーカーを選ぶように
ワクワクしながら英国製スピーカーを探している。

建築家で家具職人の彼が自分で改装したアパートの部屋に、
これらの英国製スピーカーが佇んでいるのを想像する。
彼だったら、そんな英国製スピーカーにふさわしい素敵なスピーカースタンドも
自分で作れるだろう。
スピーカーもたぶん作れるんじゃないかと思うが、骨董好きの彼には
やはり少し古い英国製スピーカーを使って もらいたいなぁ。
淹れたての紅茶の香りがたちこめる部屋で、
英国製スピーカーの香り立つような気品ある音で音楽を聴いてほしい。

まぁ、どっちかというと"ガテン系"の彼ではあるのだが・・・。

音さえ良ければと思って自作スピーカーを使っている僕としては
こういった情景を想像することが本当に楽しい。


2008.11.14

"eco"とか"地域"とかいうキーワードを使うばかりで、
その人自身の"物語"に欠けたものばかりのような気がする。

借り物の物語を自身の物語とすり替え・錯覚しないほうがよい。
借り物の物語では語り続けるためのモチベーションは持続しないと思う。
自身の物語を核に、そういった周りから期待されるものを
付け足したり引いたりしながら発展させていくのが良いんじゃないかな。

結果ばかり求めている。
落としどころばかり探っているような感じ。
出発点であるはずの理想とか物語が後からでっち上げられているんじゃないか?
そして記録ばかりを立派なものにしようとしている。

写真はその場の現実をそのまま写し取ったものじゃないということは誰でも知っている。

これから本当の21世紀が始まる。
どんなに大きな組織であろうと借り物の理想しか語れないようでは生き残れないんじゃないか?
本物の理想を語れるものだけが生き残っていくんじゃないかと思っている。


2008.11.8

人が初めて成し遂げたことって、
やっぱりどんな分野であれ、すがすがしく心地良いことに感じられるね。
スポーツでも探検でもノーベル賞でも今回のアメリカ大統領選にしても。

それがアートではない分野であっても、本質的にアーティストと呼ばれる人たちは、
古い概念を壊し、そこに新しい地平を見つけることができる人たちのことだと思っている。

今回の新しいアメリカ大統領が成し遂げたことは十分に優れたアートと言えると思う。


2008.10.30

さてさて、さてここ1〜2ヶ月前から我が家では夜の映画上映会が流行っておりまして、
だいたい週に4本づつくらいのペースで楽しんでおります。
そんなわけで、ここ最近の朝はやはり前の日に観た映画の話で盛り上がったりしてします。

今までこのメモで普段観たり聴いたりする作品の感想を残さないのは、
特に意識しているわけでもなく、まぁ、アンナさんに直接その時思ったことを
一通り伝えたらそれで満足してしまうからかもしれません。

そんな中でも昨夜観た映画、こちらの『once ダブリンの街角で』は、
何かそれを身近な人すべてにすぐ伝えたくなる、そんな映画でした。

とにかくこの映画を観て、
改めてミュージシャンと呼ばれる人たちへの尊敬の念を持ち直しました。
いや、そんな小難しいことは全部抜きにして、

とにかく「音楽が素晴らしかった!」

ということだけは確実にここに記しておきたいと思います。


2008.10.24

報告します!

アンナさんがまたまたすごいことになっています!

えーっと、実はアンナさんが常々師と仰ぎ、ゾッコンで
文字通り“私淑”する、かの「タナカカツキ」氏とついに相見え、
直接その教えを仰ぐという事態が発生いたしました!

その様子は、タナカカツキ氏のデジオナイトでもすでに公開され、
そしてアンナさん自身のメディアであるデジオの穴でも近々公開される予定とのこと!

そこで、アンナさんはここぞとばかりに、このソニハウスの素晴らしさをタナカ氏に
延べ10時間に渡り(!)「これでもか!」と伝えんとし、ついにタナカ氏の口から直接
「ステキやん、コラ〜!」と言わしめることに成功しました!

このソニハウスの歴史に残る華麗なる偉業を成し遂げたアンナさん曰く、
タナカ氏のことについて一言、「明石家さんまに似てた。」と言い放ち、
その激務からの疲れか、はたまたドリームがカム ツゥルーした後の虚脱感からか、
今現在寝込んでます。(マジで)

そして、ちまたでは来年あたりタナカカツキ氏がこのソニハウスに降臨か?!
との噂も囁かれてる様子!

え゛ーっ!どうなる!?どうする!?ソニハウス!!!

続報を待て!


2008.10.23

前回の家宴の感想を記そうとしているうちに早1ヵ月が過ぎてしまいました。
特に出演してくれた2組のアーティストの演奏については、
ここに書き残さなければいけないと強く思っていまいた。
僕自身は実際には会場(のリビング)ではなく階段で聴き入っていたのですが、
細部まではさすがに聴き取れなかったと思います。
それでも演奏に集中するアーティストと、その音に集中する観客との
ある種の音楽的興奮の高まりは、ありありと感じることができました。

金子さんのお話ではリハーサルの時、ヘッドフォンによる
音のバランスのチェックも全く必要ないくらい、
金子さんが作ったとおりの音が現実にそこで再現されている
ということをおっしゃっていただきました。
しかしそんな当たり前であるべきことが実は今までのライブ会場では
本当に難しいことであって、今回初めてそれを経験されたとのことでした。
ということは、金子さんの音楽は本当の意味で初めて聴衆にそのままの音・形で
届いたということになるのでしょうか。
アーティストにとっては何の誤魔化しもきかない、まさに真剣勝負となったはずです。
それがはじめに書いた「集中が集中を呼ぶ静かな音楽的興奮状態」に
つながったのだろうと思います。

そして、次の中島夫妻もまたそんなsonihouseの音響環境の中、
その繊細で静謐な音楽の世界観を存分に発揮されていたようです。
実際、演奏が終わった後の観客の皆さんの反応も良く、
「素晴らしかった」の声を続々と頂くことができました。

僕たちの理想である、
「もっと親密で音に集中できる環境。
大音量ではなく小音量の美しさが際立つような。
アーティストと聴衆が静寂を共有しあうような美しいライブ。」

という言葉のままの それは本当に美しい光景であったと思います。


2008.10.20

作るってことを搾り出すようにやっているのであれば、
そこにどれだけ大きな動機があるかってことが重要ではないのかと思う。
まずそれが好きっていうことであれば話は簡単なような気がする。
でも好きではない、けど搾り出すように作り続けるっていうのはどういうことなのか?
そこには何か大きな理想があり、それを共有したいという気持ちを持っているから
というのもあると思う。
その共有したい理想ってのが、軽い自我の押し付けだったり、
単なる他からの借り物であったりすると人はそれに気づいてしまうんじゃないかな。
自分が求めている理想ってのにどれだけ自分が感動できているのかってのを
いつも意識しないといけないのかなと思う。
その理想を持つにあたった自分の体験の深さ、感動が
そのままその創作・もの作りの動機になるはずだから。
あとはその表現自体がどれだけ不器用であってもいいんじゃないかな。
ただ表現するってことに謙虚でなくてはいけないと思う。
自分の理想ってのに謙虚であるってこと。
それさえあったらあとは急ぐ必要もないんじゃないかな。
自分はただそれを続けていくってことだけで。


2008.9.3

今回で家宴は早くも第3回目を迎えます。
今日は第一部で登場していただくアーティスト2名をこの場でご紹介いたします。

まずは金子由布樹(かねこゆうき)さん
金子さんの演奏を聴くと、僕は大好きなCy Twomblyの絵を思い浮かべてしまいます。
Cy Twomblyの絵は一見、無秩序な殴りがきの線、いわば落書きの集積のような絵なのですが、
全体として見たときの奥行き、余白の美しさ、色を薄く重ねた繊細さ、
そしてなんと言っても心地よい軽さが僕にはその魅力です。
金子さんの演奏もコンピュータを使った、いわゆるノン・ビートのアンビエントなのですが、
その音の重ね方にCy Twombly的な淡い色彩の重なりと音の余白と
その奥行きの美しさを感じます。
最近、米and/AORのサブレーベルmoarより、
1stアルバムのヴァージョン違いがリリースされたとのこと。
http://www.and-oar.org/moar_catalog.html
ワールドワイドに活躍される金子さんです。
今回はわざわざ東京から家宴のために参加されます。
本当にありがたいことです。

そして、中島基裕(なかしまもとひろ)さん
中島さんの演奏は極細の表現というか、繊細さの極を究めるような演奏です。
僕が初めて中島さんの演奏を聴いたのは奥様と2人で演奏された時なのですが、
中島さんがアコースティックギターを、そして奥様がクラリネットを演奏されていました。
ギターの弾(はじく)音とクラリネットの吹く音の対比を見事に昇華させた
素晴らしい演奏でした。
奥様の吹く音というのは空間への広がり方がすごくて、まるでアジアの大陸を
思い起こさせるようなゆったりとした大らかで包み込まれるような音でした。
それと中島さんのギターの音は決して強く弾かない、微かな弦の響きを
丁寧に耳で拾い確かめるような演奏で、 2人のこの演奏が合わさることで、
柔らかに包まれるような音の中にも繊細で緊張感に溢れる音が同時に存在するという
極めて美しい音響空間を創出されていました
またお二人の繊細な演奏はわずかな物音も排除したくなるような
環境に左右され易い演奏であり、このあたりが
sonihouseの音響空間とどうマッチングするかが本当に楽しみです。
中島さんもイギリスのレーベルから2枚ほどアルバムをリリースされていて、
これまたワールドワイドにご活躍されています。
http://www.pastelrecords.com/SHOP/pv-022.html

第一部はこのような豪華な布陣となっております。

イベントの詳しい内容はこちらをご参照下さい。

参加の予約はメール(info@sonihouse.net)にてよろしくお願いします。


2008.9.2

mamoruくんの空庭と難波宮跡地でのライブパフォーマンスに関して
どちらも環境音を意識した演奏が素晴らしかった。
環境音を意識すると時間的・空間的に贅沢な感じが出てくる。
アコースティックな楽器の音、特にチェロ、
チェロが入るだけでライブ全体の品位が上がるような気がする。
管楽器に較べて音量は小さい。
けどPAを通して音量をそろえようとするとあの贅沢な感じがなくなると思う。
PAを通すということは楽音以外を排除することになる。
せっかくの環境音がすべてかき消される。
途中、偶然にも花火の音が入ってきたが、あれが良かったかどうかは分からない。
室内でのライブでも繊細で小音量な演奏によって屋外からの音が
自然にミックスされていたのが素晴らしかった。
工場からの機械音や車が走る音、サイレンなど、
空間的な広がりと同時に物語的な広がりが出てきて
自分の意識が拡張されていくような感覚が久しぶりに味わえた。


2008.8.30

風景という言葉を初めて発見した。
今まで風景という言葉をもっと曖昧に使っていた。
これほどまで風景という言葉を明確にイメージできたのは初めてだ。

僕はすべてを風景にしていこうと思う。
風景は作るものであるという認識。
風景という広がり奥行きを感じさせるものにしていく。
家でも本棚でも机の上でも.
すべての在り方を。
また僕は全てに風景を見出したい。
人にも、
もちろん音楽にも絵画にもデザインにも、すべてのアートに対して。


2008.8.29

正確な記録だけでは現実の確認でしかない。
それは作品ではなく実験結果の確認であり
また相手を言いくるめることである。

いつも期待しているのはこの現実からの飛躍、
その入口に連れて行ってくれるもの
現実と虚構のあいまいな境界、
その先を自らの創造にゆだねられるもの。
そういう詩心を刺激してくれるもの
思考することのきっかけを作ってくれるもの。


2008.8.20


2008.8.19

僕たち日本人は経済的には本当に豊かになったよね。
けど本当に得る価値のあるものを得ているかというと
そうでもないと思うんだよね。

今回の旅はそういう意味で豊かさってもの
の有り難さを本当に強く感じたよ。

僕たちに選択できる自由があるって時は
本気で迷って本気で選ぶということを
一つ一つ丁寧にやるべきだっていうこと。

だってそうすることによってでしか自分にとっての
本当の「もの」の価値なんて出来てこないんだからさ。
人の真似だけで選んだり、人の押し付けにまかせっきりじゃ
自分の中に「もの」の価値に対する尺度が全然育っていかないんだよね。
そういうところをおろそかなまま僕たちの得た経済的豊かさを浪費していくとね
本当に中身のない上っ面だけの豊かさになっていくんだと思うんだよね。

中国に行ってね、僕よりももっと若い世代の子たちと接したんだけどね
彼らには生活の中にほとんど楽しみがないんだよね。
寝て食べてテレビ見てまた寝る・・・とかね、
そんな日常を繰り返しているんだよね。
「それだったら僕たちとそんなに変わんないじゃん。」
って思うかもしれないけど、
実は彼らはそれを自ら選んでるんじゃないんだよね
実際にはそれしかないんだよ。それしかできないんだよ。
パソコンも音楽を聴くためのオーディオ機器なんかも
とてもじゃないけど買えないだよ。
だから中国の若い子たちはみんな働いてさ
将来お金持ちになるんだって言ってたよ。

けどね、実際にはいるんだよ、中国にもいっぱいお金持ちがさ。
日本みたいにBENZとかBMWなんかもいっぱい走ってるよ。
けど結局ね、そういうBENZとかBMWなんだよね、お金持ちになっても。

「豊かな生活」っていう言葉でイメージするものは
日本はもうとっくにさ、いい加減、そういうのじゃないような気がするんだよ。

僕たちは本気で迷って本気で選ぶってことができるんだよ。
幸運にもそんな暇や余裕があるんだよ。
だからさ、そんな暇や余裕を人任せにしたりして
何もしないってのはもったいないって思うんだよね。


2008.8.10


2008.8.9


2008.8.5


2008.8.2


2008.7.30

中国に来て約3週間と少し、フッとした時に自分の
愛用している「もの」が僕のこころの
癒しになっているような気がします。
それは僕が着けている腕時計のことなのですが、
8年くらい前に旅行先のドイツで一目惚れして買ったものです。
そして未だにその美しいデザインに見入ってしまいます。
今、改めて美しいものを身に着けているという密かな喜びが
じんわりと僕に充実感をもたらしてくれます。
それは、ここが中国だからということが大いにあるような気がします。
僕が今いる場所は、本当に田舎の工業都市で、
日常目に入るものはどことなく殺伐としています。
どこも埃っぽく、清潔さがなく、無秩序と猥雑な感じにあふれています。
それは日本では見ることのできない生活の素朴さであり活気でもあるのですが、
それが僕の思考というか生活までも少し「雑」にしてしまっているようで、
どこかで「洗練」というものに触れたいという欲求が
高まってきているんだという気がします。
だから、日本から持参したお気に入りのカメラであるとか、
iPodであるとか、普段はその存在が当たり前過ぎて
特に気がいかないようなものにまで改めて「洗練」を感じ、
それらに触れていると少しホッとします。
逆に言えば僕はやはりそういった現代的な「洗練」とか
「クリエイティブ」というものに思考が犯されているのかも
しれないのですが、無意識にも常にそういったものを
欲しているんだなと改めて気付きました。


2008.7.26

オーディオってのが、自分ひとりの為の料理みたいなものだから
「奇人・変人系の趣味」にみられるのではないかと思っています。
米を炊くのに「南アルプスの天然水」を使えば事足りることを、
わざわざ南アルプスの上流まで水を汲みに行くような、
そんなことを一人で誰にも理解されることなく
やっているような趣味なのでそうなんるんだと思います。
もちろんそこにはこだわりがあるんですが、
「毎日の御飯にわざわざそこまでしなくてもいいだろ?」
ってのが普通の感覚ですよね。
あと、それが料理であれば気軽に家族や他人とそれを一緒に
味わうことができますが、オーディオの場合ほとんどそれが
自分一人で完結してしまいます。
もともと、それを他人とシェアしあう
という志向がほとんどないのですね。
ようするにコミュニケーションという側面が乏しい。
オーディオはサイエンスだという認識ももちろん納得できるのですが、
そうなるとやはり部屋はラボラトリー化するし、
文化的な側面はどうしても「音質の次」になりますよね。
サイエンスとアートが相反するものとは思っていませんが、
アートがほぼコミュニケーションと同義だと思っている僕は、
オーディオもコミュニケーションの側面を重視することによって、
文化的なものになる可能性を感じています。
それはAcousticTaoさんがおっしゃるように、
旨いレストランがインテリアや食器、またサービスにもこだわる
ということに似ていると思います。
そのレストランの志向をお客さんが口にするものだけでなく、
目にするもの・手にするもの、その場で体験すること
すべてに反映させて、それをお客さんに伝えるということ。
僕もそれがうまくオーディオという趣味にもおきかえられる
のではないかと思っています。
そして僕たちが主催するsonihouseでそれが上手く
表現出来たらと良いな思っています。


2008.7.25

今、中国に来ています。
中国はパンユウという工業都市です。
ここ最近、地元の中小企業の会社に行く機会がよくあったのですが、
そこのある社長との話で、「中国のバブルはもうはじけた。」とのことでした。
それによると今、まわりの同業者がバタバタと倒れていっているとのことです。
原油高騰の影響か、または中国政府の政策の転向か、
あらゆる製造コストがどんどん上がっていっているとのことでした。
中国ではもう製造業でやっていくのは厳しいとのことで、
今は南のベトナムにどんどん仕事を取られていると言っていました。

それでも、そこの社長は乗っている車も高級な外車で、
社長室には高級そうな家具が置かれている。
そんな社長室でぼーっとしていると、
この社長もこの十数年苦労して“一国一城の主”になったんだろうなぁ・・、
という勝手な感慨に耽ってしまいました。
多分、日本の90年代初頭の中小企業の会社もこんな感じだったんだろうなぁ
なんて想像してしまいました。

しかしこの辺りを歩けばまだまだ空き地が広がり、その片隅では牛がたむろし、
人々は泥まみれな姿で路上にたたずんでいます。
中国のバブルの波に乗り切れなかった人々は、まるで写真で見たことのある
モノクロの戦後間もない日本の風景ような中で生活しています。

日本はその点、バブル時には経済的に一億総中流になり、一般庶民も
その恩恵を少なからず受けれたことを考えると、
世界の流れは十年数前よりも急速で、その波の流れは中国をあっという間に
駆け抜けていったようです。
そんな波に乗れた人々は我々のバブル時代に経験した突然の豊かな暮らしに
思想や文化が追いつけることなく、また乗りきれなかった人々は周りの変化に
翻弄されるだけで自分の生活はほとんど変わることなく過ごしていく
のだろうなと思いました。


2008.7.11

たとえば美味しい肉じゃがを作りたいとします。
その美味しい肉じゃがという基準は以前に
どこかの誰かが作ったものだったとして、
そのレシピを習い、その通りに作ってみる。
しかし思い描いていた味と何だか少し違う。

それはもしかしたら火加減や野菜を切る大きさの問題かもしれないし、
肉や野菜の産地、調味料の違いかもしれない。
あるいはフライパンや鍋、コンロの火力の違いかもしれない。

とにかくレシピ通りにしたところで
全く同じ味になるとは限らないということです。

そこで、火加減や調味料の量についてオリジナルの
工夫を加えだすようになるのだと思います。

要は最初の自分のイメージや好みがシビアで
明確であればあるほど試行錯誤が続いていくわけです。

そして肉は国産の赤身ものが良いとか、
じゃがいもはどこのメークイーンが歯ごたえがあって良いとか、
鍋は大きめのルクルーゼが良いとか、
じゃがいもの灰汁抜きはどうたらこーたら、
火加減はどーたら、調味料は最初はどーたら途中はこーたら・・・、
と自分なりのレシピが出来上がっていくのだと思います。

そんな時、別の機会に他所の肉じゃがを食べたら、
それもまた何だか気に入った。
ではその味の要素もうまく取り入れてみようとなるかもしれない。

そうやってオリジナルの肉じゃがはどんどん進化していきます。

と、何のことを言っているのかというと、
これはオーディオも同じことをしているのではないかという話なんです。
唐突においしい肉じゃがが作りたいと言っていますが、
料理の種類は何でもよくて、好きな料理を好きな味で食べたいと思うように、
音楽が好きで、毎日良い音で音楽が聴きたいと思うのは
それほど不自然なことではないと思います。

で、いざ自分で料理を作ってみようと思ったら、それにはまずコンロがいるし、
鍋やフライパンなどの調理器具もいる。
もちろん材料も。
それと同じように、音楽を聴くにはもちろんスピーカーもいるし、
アンプだってプレーヤーだって必要です。
調味料としてケーブル類も。

ある料理をレシピ通りに作るように、
オーディオ雑誌や詳しい店・友人のおススメの組み合わせで
オーディオを買ってきて部屋にポンと置いて音楽を聴いてみたとしても
いきなり良い音で音楽が鳴らない可能性があるのは料理と同じです。

それで満足のいく音が出たら後は音楽を楽しむだけなのですが、
日々聴き続けていると何か不満が出てくるかもしれません。
それでまぁ調味料をかえてみるように、ケーブルをかえてみたり、
火加減を調整するように、スピーカーの位置をかえてみたり・・・。

そうやって日々、肉じゃがを自分でさまざまな工夫を凝らして作ったり、
たまには旅先の食堂で食べたりしながら
自分が思う理想の肉じゃがを明確にしていくように、
自分は音楽をどんな音で聴きたいかを日々探りつつ
明確にしていくのがオーディオという
趣味だと言えるかもしれません。


2008.7.9

音楽の感想ではなく、音だけの感想というのはオーディオマニア特有のものだろう。

もちろん音を聴くためにはまず音楽を聴くことは当然であるが、
その音楽の内容はそれほど重要ではなく、どんな再生音であったかの
印象を記すことが重要なのである。

この場合、音楽の好みは違うが音の好みが同じということが起こりうる。
なので音楽の趣味が多少違っていても音を聴かせてもらって楽しむこともできるし、
逆に音楽の趣味が合っていても音の趣味が違うと常に違和感を感じながら
その音楽を聴くことになるのでかえって楽しめない場合もある。

さて以前訪問させてもらったマニアの方が音楽の趣味は少し違うが
音がまさに僕の好みで楽しめるものだった。

その音は、どんな音楽を聴いても上質で高級感漂う音であった。
しかしそのことに特に感心したわけではなく、どんな音も余裕を持って
出てくるということに非常に感心した。
余裕があるので常に客観的に音を眺めていられる。
眺めるという表現はおかしいと思うだろうが、
これは本当にこの表現に違和感がないくらい音が立体的で
目に見えるかのように音が再生されるのである。
しかもその再生される音のサイズというかスケールが大きくて
部屋の壁や天井・床を超えるように感じるほどであった。
このスケールの表現というのは低音の出方が大きく関係していると思う。
ある時は風圧のように空気を大きく動かすような低音が出たかと思えば、
床下から地響きのように沸き起こってくるような低音、
また足元を波紋のように拡がっていくような低音。
低音の表現の幅が未だかつて聴いたことがないくらいに多彩であった。
ドン!ドン!ドーン!と力まかせで迫力一辺倒な低音が
いかにI.Qの低い低音だったかということを思い知った。
またその音の質感も無機質なものではなく、繊細かつ滑らか、
有機的な質感を持つのであった。
ボーカルの口の動きも精密、声の質感やテクニックを明瞭に描くことで
歌の情感を巧みに引き出す。
それぞれの楽器の定位が上下左右に大きく広がり、奥行き方向にも深い、
また音の輪郭を強調してくるようなところもない。

といったように、音に焦点を置いて音楽を聴き、楽しむことができる。

しかし、現代彫刻のように素材や存在だけで
作品を自立させることができるようなことはなく、
どうやっても音は音楽からは自立できないところが
音はアートとは少し違うところだと思う。

映像作品で言えば、ただ単にプロジェクターの投影能力について
語っているようなものなのかもしれない。
しかし音には映像のように枠がなく、より抽象的でいわゆる“正しい”という
基準が曖昧なところが面白いところではないかと思う。


2008.6.20




スピーカーデザインで僕が一番カッコいいと思うのは、
ドイツのアバンギャルド・アコースティックのTRIO+BASSHORNだと思います。
というのは、つい先週静岡でそれを見たからなんですが。

見てもらうとすぐに納得できると思いますが、
とにかくスピーカーの“音を出す”という機能だけが剥き出しに
なったようなミニマルなデザインなんですね。
ここまでミニマルな表現をされると、ユーモアと知性が
同居しているというふうにすら感じます。
もちろんこのスピーカーは音響工学やらナンタラ工学を駆使して
大真面目に考えられて出てきたデザインのはずです。
その証拠に販売価格が 18,900,000円(税抜18,000,000円)/セットです。
0をひとつ付け間違えていると思うかもしれませんが間違えではないです。
こんな値段で見た目だけだったら売れるわけないですものね。

それが、音は正直0がひとつ多過ぎるような気がしました・・・・。
ただ店内にポン置きな雰囲気だったんで、頑固マスターか誰かが
日夜「あーでもない、こーでもない」と音を一生懸命練っているわけでは
なかったようなので残念であったのですが。
それでも僕は見た目で贔屓するタイプなので
「潜在能力が高そうな、良い音でした!」と言っておきましょう。

で、また中央のBASSHORNというサブウーハーが、
これまたデザインがスゴイと思います。

なぜか3段同じものを重ねて設置するのですが、
これはドナルド・ジャッドの作品を彷彿とさせるものがあります。
大きさもかなりあるので、美術館に置いてあったら
普通にジャッドの作品と間違えると思います。
ジャッドの作品からは音が出ない分、同じ値段を出すなら
僕はTRIO+BASSHORNを買うと思います。
ただ僕の人生でこの先、こんな選択を迫られることは確実にないのですが。

あとこのBASSHORNのデザインってどことなくJBLパラゴン
にも似ているような気がするのですが。
JBLパラゴンと言えばスピーカーデザインの金字塔的製品です。
パラゴンももちろんカッコいいですよね。
そう言えばトリオとパラゴンは同じオールホーン型のスピーカーですね。
そのパラゴンのデザインをも超えようという意志が見え隠れするような気がします。


このTRIO+BASSHORNをデザインした人がどれだけ
こういったことを考えてたかはわかりませんが、
たぶんかなり志の高いというか、ただのスピーカーデザインで
終わろうとしてないと思いました。


2008.6.18

他のお宅の音を聴かせてもらって、
現状の我が家の音についてわかったこと。

・ミッドが柔らかくキツイ音が出ない。
・ミッドの解像度が高くない。
・音に奥行きがある。
・スピーカーの位置を感じさせない音の定位である。
・リスニングポイントがシビアでない。

この辺は無指向性の良くも悪くも特徴かもしれない。

・ベースが下に伸びていかない。
・すっきりとした細身な音。
・キックやベースにしまりがある。

この辺はスワンの限界かもしれない。

それと一番重要なのは僕は我が家の音が
改めて好きだということに気付いたこと。

これは自分が聴きたい音楽を聴きたい音で
聴けているんだという自信になった。

では、今後の課題として

・低域の伸びがほしい。
・ボーカルの口元のリアルさがほしい。

低域に関しては、今までスワンを騙し騙し使ってきたので
そろそろウーハーをちゃんと作らないといけないかなと思う。
箱作って穴開けてユニットを付けるだけなんだけど・・・
面倒臭いなあ・・・。

口元のリアルさってのはやっぱりクロックあたりかな?
これはCDドライブ内部に手を入れないといけないので迷うところだ。


2008.6.17

趣味を通じた交流ってのは本当にいいものですね。

僕の場合、趣味がオーディオなのですが、お付き合いする方の
年齢が僕よりも1、2回り上の方ということが多いです。
けど、オフ会が始まれば年齢や性別、もちろん社会的地位や、
経済的事情なんてのも全然関係なく純粋に趣味を通した
同士として対等に交流していただけます。

純粋な仕事ではなかったけど、美術をやっている時はやっぱり
キャリアとかで人の対応があからさまに変わる場合なんかもあるし、
たいして考えてなかったけど駆け引きとかそういうのもあったと思う。
1,2回り上の世代の人たちは、やっぱりちょっと偉そうにしたりする
人も中にはいるし、面倒くさいなぁ・・・と思うとこともありました。
まぁ、逆にこっちが構えすぎていたりすることも多いのだけれど。

そういう経験があったので、オーディオの集まりに初めて参加した頃は
やはりこちらも様子見というか、ちょっと構えていたような気がします。

それが我が家に来て下さった山本さんをはじめ、
この土曜日にオフ会でお邪魔させて頂いたお2人もそうなのですが、
失礼な話かもしれませんが、目線が同じ高さでいられるというか、
オーディオに対する取り組み方が皆さん純粋なので、
本当に仲間っていう意識が強くなります。
もっと言えば親しみを込めて友達って言いたくなるくらいです。

今までの経験で男性に限っては、やはりどんな時も年齢の差を感じる
ことが多かったのですが、オーディオを通した交流ではそこが本当に
気持ちよいくらいにフリーでいられます。

機器の交換などで音の違いを一生懸命に観察しあって一喜一憂したり、
憧れの機器について語りあったり、時には
「どこかのケーブルが評判らしいよ」なんて噂話で盛り上がったり。

自分もその場で一緒に盛り上がっているのですが、
この光景って本当に可愛らしいっていうか、
子供が友達同士で遊んでいる時の光景そのままのような気がします。

こういう交流がかたちを変えてもっと他にもあると思うのですが、
ソニハウスでのイベントもこんな風になるようにしたいなと思いました。


2008.6.12

僕がオーディオの達人と崇めている
山本耕司さんが月の一度、「音楽喫茶」と称して
ご自分のシステムの音を一般に公開されているのですが、
その「音楽喫茶」が今月6/28に開催されます。
場所は東京のJR御茶ノ水駅から徒歩7分ほどにある
STUDIO K'sです。

山本さんは写真家でいらっしゃるのですが、
実はSTUDIO K'sはその山本さんがオーナーとして運営している
多目的スタジオ(元々は写真スタジオ)です。
山本さんはオーディオ界では相当有名人で、
ご自身が運営するオーディオの話題を中心とするHPでは週のアクセスが
1万を超えたことがあるそうです。

◆ 僕のオーディオ生活
http://home.j08.itscom.net/studio-k/tcn-catv/myaudio1/myaudio.html

HPを見てもらえば分かるのですが、オーディオについてもの凄い情報量です。
日付が98年から始まっているのでもう10年も続けているのですね!

オーディオ機器についての豊富な知識と、そして機器の使いこなしの技は
達人の名に恥じないものです。

そしてこのスタジオにはHPを見たありとあらゆるオーディオマニアが、
その音を一度は聴いてみたいと詣でてくるという聖地なのです。

オーディオについてあまり詳しくない方は、オーディオ機器は単なる音がでる
機械だと思われてると思うのですが、オーディオ機器は買ってきて部屋に
ポンと置いただけではその機器の能力は十分に発揮されるものではないです。
その部屋と機器とのバランスを考えた設置場所や、使いこなし方の知識やセンスで
能力が十分に発揮させれるようになるのです。

このスタジオはそんな山本さんの知識とセンスをこれでもかと注ぎ込んだ場所なんです。

山本さんの使用されている機器の中には"マランツ7"という50年代終わりに
製造されていたものもあるのですが、古い機器なだけあり状態の良いものはほとんど稀で、
このマランツ7はその音の良さも含めて今では伝説の名器とさえ言われています。
そしてその状態の維持とオーナーの使いこなしには相当敏感な機器で、
山本さんでもこのマランツ7の不安定さには初めかなり手を焼いておられたようです。

今ではその伝説の名器"マランツ7"を中心としたシステムで
「すんげー良い音!」を出しておられます。

6/28当日は、ブラジル音楽をメインに音楽喫茶が催されるのですが、
そのメインDJを我らが中田進平さんが務めるというわけです。

◆ Open Hand Servise Blog
http://open-hand.jp/blog/

中田さんは僕と同世代のオーディオと音楽とアートをこよなく愛するナイスガイなわけですが、
僕とは趣味のオーディオの話が出来る希少な友です。

今回、そんな中田さんのハイセンスな選曲で素敵なブラジル音楽が
「すんげー良い音!」で聴けるという前代未聞のイベントが行われるということで、
われわれソニハウスも俄然期待が高まりここに皆さんにこの希少な機会を
無為にすることがないようお知らせする次第であります!

もちろん、僕とアンナさんも当日スタジオにこの世紀の大イベントを見届けるべく
馳せ参じる心積もりであります!

皆さんもお見逃しのないよう!

それでは6/28、STUDIO K's音楽喫茶でお会いしましょう!


2008.6.11

ホントにたま〜〜〜っにこのメモを読んで感想をもらうことがあります。
いや実際2人目なんですけどね。
推定5人くらいの人が読んでくれていると思います。
2人は僕とアンナさんです。
というわけで、推定5人の読者の内の1人、
桃*さんから前回のメモに関連した内容のメールを頂きました。
素晴らしい内容でしたので、ここにご本人の許可をもらって掲載させていただきます。

桃*さんとは2005年度の横浜トリエンナーレでご一緒させて頂きました。
フランス在住の現代美術作家で、その作品は簡単に言うと、パリの自宅にアーティストを招き
作品を作ってもらうというものです。
そこで個人の住空間で作品をいかに成立させるかということを長年続けていらっしゃいます。

◆ microeriko homestay project
http://microeriko.homestay.p3.org/archives/i/200505/262355_19.php

僕たちがやっていることの大先輩ですので、
僕たちもソニハウスを始めるにあたって色々と貴重なアドバイスを頂きました。

そんな桃*さんは音楽、とくにクラシック音楽に大変お詳しいです。
ご自身でもピアノを演奏されますし、フランスという地の利を活かし、
コンサートに行きまくっているようです。
音楽の話になるといつも貴重な体験を交えた鋭い音楽批評を話して下さり、
クラシック音楽に疎い僕もその内容にグイグイと引き込まれます。
今回もそんな内容のメールでした。
ここに出てきた指揮者の演奏をこれからじっくりと聴いてみたいと思います。

では、紹介が長くなりましたが、ここからが桃*さんのメールの内容です。
________________________________

指揮者を含む演奏家の中には、「客観性」と「ざわつき・体臭」が両方、
拮抗したり、バランスをとったりしながらっていう状態を、
内包してる人、かなり何人も思い浮かびます。

これは、演奏というのが、文字通り自分の体という存在を媒体としてる
からかなあって気がするんやけどね。

いかにも「悟ってる」系の作品と、本当に「悟っている」作品の違いは、
自分の存在をどれほど賭けてるかどうかから来るのではないか。
本当に「悟っている」作品と、純化や客観性と「体臭」を全部抱えてる作品の
共通点と違いは、両方とも、作り手が自分の存在を賭けてるんだけど、
前者は、それをある種の冷たさや清涼さを以てしてるのに対し、
後者は、熱さで、それをやってるのではないか。

って、思いました。

指揮者だと、ブーレーズが前者の代表格、
サロネン、小澤、エッシェンバッハが後者。

ブーレーズは、そもそも指揮の仕方も、えらくミニマルで、
本人の感情をすっかり排してるんだけど、作品そのものの持つ
感情的な面や思索的な面を、明晰に浮き彫りにさせるタイプ。
(今日、マーラーの10番聴きに行くんだよー) ←イイナ〜!(万)

サロネンは、ラヴェルのラ・ヴァルスを生演奏聴いたけど、
緻密な分析をも体で表現することにより、結果的に、音楽の渦を、
本人が渾身で体現する境地に達しきってて、ものすごい名熱演。
この人は、本気で心臓に注意したほうがいいだろうとも。。
むっさ、どきどきします。
本人が、体質的にそういうどきどきを求めてるのも感じられるしね。

小澤は、奇しくもこれも例が、ラヴェルのラ・ヴァルスになるんだけど、
マーク=アンドレ(前に話した作曲家の友達)の奥さんが、
国立フランス管弦楽団のビオラ弾きだった人で、
その話が出た時に、「じゃあ、小澤の指揮も体験したの?」って聞いたら、
「素晴らしい思い出があるわよ。ラ・ヴァルスを録音した時の演奏は、
私たち皆が彼の音楽に巻き込まれて、自分が弾いている目の前の楽器の存在を
すっかり忘れてしまうほどだったわ!」
っていう返事で、その時、マーク=アンドレがすかさず、
「ブーレーズとも、そうなるだろう。」
って言ったら、
「ううん、あれは小澤だけ!」
って言い切ってたよ。

私が実際に聴いた小澤は、チャイコフスキーだけど、思えば、
体臭むんむん系の指揮だったなあ(笑
でも、何らかの客観性は必ずある種の厳しさを以てあるんだよね。
じゃないと、体臭だけじゃ破綻するしね。
すごい良い演奏だったよ。
__________________________________

いやー、桃*さんありがとう!
ということで拍手っ!!!

個人的には小澤に関しては意外な感じでした。
CDでしか聴いたことないけど、こじまりとした印象しかなかったので・・・。

実は桃*さんには不定期でこのHPに音楽コラムの連載をお願いしちゃいました!
そちらは近日実現されると思いますので推定5人の読者の皆さんお楽しみに!


2008.6.10

これを読んでいるほとんどの人は知ってると思いますが(推定3名)、
知らない人もいると思うので(推定2名)報告します。

6/9発売のオーディオベーシック誌
に我が家が掲載されています。

読者の皆さんは、
アンナさんの素敵なポートレートも載ってるので一家に一冊常備しておいて下さい。
我が家では、1,閲覧用 2,永久保存用 3,巡回用と3冊手に入れる予定です。

で、こうして客観的に我が家のシステムを眺めてみますと、
どうもシステムに「お子様」な感じ出てて恥ずかしくなります。

次のページの御田さんのシステムなんて、
紙面から薫るような雰囲気が醸し出されているわけですが、
僕もいつかはこんな薫るような雰囲気を醸し出したいです。

奇しくもオーディオ風景を標榜している僕があんな風景では立つ瀬がないです。

以前この雑誌で見た、僕が一番印象に残っている部屋は
オーディオテクニカの創業者のリスニングルームです。

そこには土器や埴輪、仏像なんかが遺跡からたった今運ばれて来ました
って感じで部屋中に無造作(に見える)に並べられて、
しかもそれがスピーカーの真ん前に置かれてたりで、
オーディオマニアにあるまじき風情なんですが、
そのスピーカーも50〜60年前くらいに映画館で使われたもので、
アンプもそれと同じような年代のものでした。
しかし、CDプレーヤーは現代最新最高のものが使われていたり、
ケーブルも現代的なものだったりで、ただただ古いもの好きではなく、
オーディオに現代進行形で熱中されているのが伝わるものでした。

あの部屋が僕の理想ですね。

今とは正反対ですが。

若干、写真には写ってない正面左側の棚にその片鱗はうかがえると思います。

でも、今の我が家にはやっぱりスッキリとしたインテリアが合いますね。
僕が40年くらい年をとったらあういう薫る部屋にしようと思います。


2008.6.4

ある作品が今までよりも完成度を上げてきたぶん、
そこから抜け落ちたものもあるように感じた。
作品が整理されて、今まであった毒みたいなもの、
あるいは体臭みたいなものまで抜けてしまったような感じがした。
もちろん美しく純化していくことや、客観性を研ぎ澄ませていくような
作品の方向性をどんどん進化させていくことは重要だと思う。
今まであった毒みたいなものは、良くも悪くもコントロール
出来ずにいたものだったのかもしれない。
そういった毒と言うか、特有の体臭みたいなものが、
その純化や客観性を上げていっても失われずに高い次元で
保てるかどうかというところに僕は興味があるようだ。
「作品が見る人にとっての鏡となって、その人が作品から何を受け取るかに
興味がある。自分の感情や志向、あるいは時間などを画面に定着させ、
観る人にそれを感じてほしいのではない。」というのは作品を作る
ということにおいてとても共感できる。

しかし実際の作品に接する時、僕が求めているのはもろに感情的なものだ。
それはフラットな感情と言える。
そのフラットさがどんどん下にさがっていく。
言い換えれば落ち着きという感情と言えると思う。
そういう感情を作品に感じた時、僕は良いなぁと思う。
そうなると分かりやすい毒や体臭なんてざわついたものは
作品からできるだけ排除してほしいと思う。

ではなぜある作品を観て僕が以前はあったその毒や体臭を残してほしいと思ったのか、
それはそういったいわゆる「悟り」みたい世界をあらわす作品は世の中に腐るほどあって、
そういう方向は実は安易で独りよがりなことのような気がするからだ。
だからいかにも「悟っています」的な作品に僕は今ものすごく抵抗がある。
客観性を突き詰めて、コンセプトとテクノロジーだけのまるで骨だけのような作品。
そういう「悟ってます」系の作品にならずにいてほしい。

作品から毒や体臭を排除して排除し続けて、それでも最後に残るような
少しざわついた揺らぎみたいなもの、そんなものが作品の中にあったらいいなと思う。
そういう相反するものが同時にあるような作品を求めているんだなぁと思う。
動の中に静をみるような、静の中に動をみるような・・・。
あれ?結局なんだかとっても「悟っている」作品を求めてるじゃないか・・・。


2008.5.28

我が家のオーディオ、
また音が変わった。
今回はなんか不本意だけど、たぶん良くなった。

以前使っていたベルデンのRCA-XLRケーブルが余っていたのを思い出し、
何気なくツィーター用アンプに使っていたモガミのケーブルと交換してみた。
すると、いきなりツィーターからシャー!シャー!と大音量が出てきた。
慌ててツィーターの音量を絞ったが、高域の出方が以前と全然違う。
今までの我が家はどちらかと言えば柔らかいめの音だった、
もちろんツィーターを足していても。
しかしケーブルを換えたことによってツィーターから初めてちゃんとした高音が出てきたのか、
かなりカチッとした音に変わった。
打撃音のインパクトが鋭い。

それからツィーターの調整を続けている。
結局前の設定より-10dB音量を下げて、クロスも15kHzだったのを20kHzに変更、
しかも6dBカットを12dBにした。
ボーカルの「サシスセソ」にツィーターの音が出来るだけ乗らないように調整している。
それでも高域の存在感が強くて、
全体的に音がちょっとさっぱりとし過ぎているような気がする。

それにしても、なんで???
もしかして、あのモガミのケーブルは不良品だったのか?
今まで散々ケーブルの比較はしてきたと思っていたのに・・・。
あれを使い続けてきたことがアホみたいに感じてショックだ・・・。


2008.5.26

作り手の“こだわり”がほとんど受け手に届かない、
それどころか単なるエゴの押し付けに感じられるものがある。

コーヒー専門の喫茶店に入った。
そこは世界中のコーヒー豆の産地から好きな国の豆を選び、
炒り方も深入り中炒りと注文できる、というか決めさせられる。
6人の仲間と一通り注文して待つこと10分程、
やっと3人前のコーヒーが運ばれてきた。
ホットを頼んだのにガラスのコップで出てきた。
コーヒーの色を見せたいのだろうか?
砂糖やフレッシュはついていない。
それから更に10分待ってやっと全員のコーヒーが揃った。
それと同時に砂糖と牛乳がテーブルに運ばれてきた。

で、味は?と一緒に来たコーヒー好きの友人に聞くと、
「説明通り、少し酸味があって程よい苦味もある。ほんとに最初の説明通りの味。」
ということであった。

“こだわり”っていうのは、もちろんサービスとして非常に重要で
それだけでも売りになるだろう。
で、それが受け手の方で「分からないけど、たぶん普通だった。」ってなったら
それは単なる店側のエゴで終わる。
今回の場合、店側のこだわりが“待たせる”という行為となって、
そんな豊穣な“意味”に、それを僕たちは単なるエゴの押し付けだと感じて帰った。

そのすぐ後、ある料理店でコースものの食事を頼んだ。
そこでも最後はコーヒーで締められる。
全ての食事が済み、ほっと一息ついたところで熱いコーヒーが6人全員同時に運ばれてくる。
コーヒーと一緒に小さな包みに入ったラクガンが付いていて、シェフから
「最初にラクガンを口に入れてからコーヒーを呑んで下さい。」と説明があった。
コーヒーを呑んだ全員が「さっきのコーヒー店より美味しい。」と言った。

僕たちはこの店のコーヒーの味には大して期待もしていなかった。
それがなぜ「さっきの店よりも美味しい。」という言葉になるのか?
やはりさっきの店と同じようなコーヒーへのこだわりを感じたからだろう。
けど、コーヒーを出す前に大げさな前置きは何もない。
ただ一緒にそえられたラクガンを先に口に入れてほしい
という店側のこだわりを伝えられただけだ。
あとは味に託されている。
ラクガン一個をそえる、そのスマートに伝えられた“こだわり”が
僕たちにはどこまでも心地良いものであった。
それが素直に「美味しい。」という言葉になってお客から店にかえされる。

そういう心地良いコミュニケーションを成立させるために、
“こだわり”を持って作っていかなければいけないんだなと思う。


2008.5.20

昨日は帰宅して前日の変化がまぼろしでないか確かめました。

前日ほどの感動はないですが、やっぱり良い!
低域のことばかり書きましたが、高域ももちろん変化が大きいです。
なんか音の輪郭が薄くなって細かい粒子で音の形を現すような感じです。
だからと言って音の芯がなくなったりはしてないです。
描写がすごく細かくなった感じ。
ケーブルを細い縒り線から単線に替えたので、イメージしていた太くて力強い高域でなく、
粒子のような広がりのある高域に変化して驚いています。

昨日はそれを確認した後、宴の際にツィーター落下という事故がありまして(泣)、
それ以来ツィーターが傾いたまま元に戻らなくなったのですが、
その対策をしようといろいろと策を講じました。
その結果、うまくツィーターは固定されたものの、
なんと!音が悪くなってしまった・・・。

ということで、まだまだ試行錯誤の日々は続きそうです。


2008.5.19

この土日は、アンナさんが東京出張だったので一人でオーディオ三昧して過ごした。
土曜はいきつけの中古オーディオ屋に行って、そこにあった、
フルヤマというガレージメーカーの平面振動板フルレンジスピーカーを聴かせてもらった。
オペラの曲を試聴したが、声が本当に自然で生々しく抜けも良かった。
思わず聴いていて少し鳥肌が立つのを感じるほどだった。
良いものを聴かせてもらったなぁ。

しかし、その後同じスピーカーで聴かせてもらったロックの曲では、
音が優しくなり過ぎてエレキギターの音も変にチープに聴こえた。
いやー、難しいものですね〜。

で、ついさっきアクロリンクの電源ケーブルが入荷したということで、
店員さんと一緒に試聴させてもらった。
ダイヤトーンの少し古いスピーカーでの試聴で、さっきのフルレンジと比べると、
音のまとまりが悪く、音が高・中・低とバラバラに分かれて聴こえる。
たぶんアンプが非力なせいだ。
そんなこんなでとりあえずアンプの電源ケーブルを差し替えて比較した。
音がスッキリして聴こえる。
ベースの輪郭の滲みが無くなって音が立ってきた。
ビブラフォンの高域の抜けも良くなった。
なかなか良さそうだ。
前のオーナーはジャズやロックを聴くのに音が前に出てこず、大人しくなりすぎるので、
買って1週間ほどで売りに来たそうだ。

散々迷った挙句、お買い上げしてしまった!

早速家に帰って以前から気になっていた箇所の電源ケーブルと交換してみた。
しばらく聴いていたが高域と低域の伸びが加わっている。
が、前のオーナーが言っていた通り、音が優しくなり過ぎて前に出てこない!
そこで以前使っていたケーブルやら何やらをひっぱり出してきて、
とっかえひっかえといろいろ実験した。
で、結局手持ちの線材で電源ケーブルを新たに2本作り直した。
電源タップに使っていた電源ケーブルを楕円単線の自作電源ケーブルにしたのと、
余っていたアコリバの短い電源ケーブルも使った。

さて買ってきたアクロリンクはどうしようかと思案していると、
そういえばiMacの電源ケーブルも3Pインレット型だったと思い出した。
で、Mac付属のケーブルからアクロリンクに交換したところ、
音が引っ込んで大人しくなることなく、音の出初めのアタックのところが
丁寧に分解されているのが聴こえてきた!
余韻の広がりもきれいに伸びる。
これは良い!
もう深夜になっていたので、そのまま電源を入れておいてその日は寝た。

さて次の日、朝から一人で宴の片付けと掃除を終わらせてから、
また午後からオーディオ三昧である。
昨日の電源ケーブル変更による音の変化を確認しつつ、ケーブルの取り回しを整理する。
聴いていると高域に力強さがもっとほしいなぁと思い始めた。
ツィーターはチタンのリングラジエーター型で
本来ならもっと高域の音色も太いはずなんだけどなぁ・・・
とボンヤリと眺めていたら、使っているケーブルに目が止まった。
今ツィーターに使っているケーブルは細いライカル線という線材を使っている。
これを手持ちの楕円単線にすれば音も太くなるのではないかと思うと早速試したくなった。

で、つなぎ替えて音出し。

予想に反した変化に驚く。
今まで聴いたこともないような音が出ている・・・。
低音が床を蹴ってボンついたような音だったのが、なぜか低域のボンつきが無くなった。
低音が小刻みに空気を震わせているのが分かる。
これって低音の分解能が上がったってことなのか???
ベースがポッカリと中に浮いてるような感じ。
そこからブルゥゥゥンと低音の波が広がっていく。
全体の分解能も上がった。
とにかく聴いていて気持ち良くなる音。

そのかわりというか、ツィーターからのノイズが更に聴こえるようになってしまった・・・。
ここはアンプが悪いのかツィーターが悪いのか
ずっと分からず以前から気になって困っている箇所だ。

それ以外はもうずっとこのままで良いと思えるような音になってしまった。

いやー、オーディオって楽しいなぁ〜♪


2008.5.16

たとえば、家具職人の友人がいたとして、
ライブでアーティストが使う椅子と小さな机を作ってもらうとする。
すると宴に来てくれたお客さんに
「この椅子は手作りで○○という友人が作ってくれたんですよ。」と紹介できる。

あと、陶芸家の友人がいたとして、
宴の際に使う器を作ってもらったとする。
また来てくれたお客さんに
「この器は手作りで○○という友人が作ってくれたんですよ。」と紹介できる。

僕たちのはめている指輪に興味を持ってくれたお客さんがいたら、
それを作ってくれたジュエリーデザイナーの友人も紹介できる。

演奏をしてくれる人、料理を作ってくれる人以外にも
僕たちがこの場で紹介できる人たちがいる。

そういうことをちゃんとしていったら、いつの間にかこの場が電話帳みたいなものになって、
人と人の間を取り持つような場にもなれるかもしれない。

お客さんとして来てくれた人が、次はこの場にかかわる側の人になる。

そういう循環ができてきたらいいなぁ。


2008.5.14

もし「音楽がある生活というものも良いものだなぁ」と思ったとして、
「じゃあ何かオーディオでもそろえてみよう」と考えたとする。
で、とりあえず僕に相談してきてくれたとして、
僕が「では入門用といわれるもの一式そろえるとして10万円くらいは予算ほしいです。」
なんて言った瞬間に話はそれで当然終わってしまう。
そうなるとマズいので最初に「では予算は?」と聞く。
すると「3万円くらい・・・、出せても5万円くらいかな。」と言われる。
しかもそれで「それくらい出したらホームシアターも出来るよね?」なんて言われる。

ステレオだったら5万円の予算でもいけると思う。
コンピューターをプレーヤーとして使えばアンプとスピーカーをそろえれば良い。
安いデジタルアンプで1万5千円くらいとして、
残り3万5千円でスピーカー。
中古でなら少し前の有名ブランドのエントリーモデルなんかも結構ありそう。

けどホームシアターは・・・。

プレーヤーはすでに持ってるのが前提で、
2万円で運良く中古のAVアンプが見つかったとして、
残り3万円でスピーカー5台とサブウーハー・・・。

自作しか無理でしょ・・・。

もし自作する根性があったとして、
8cmフルレンジが1本3千円が5本で1万5千円?
10cmのウーハーが4千円くらい?
15mmのMDFの板1枚カット込みで6千円くらい?
あとは端子やらコイルやらのもろもろの材料・・・。

3万円でなんとかなるのか・・・?!

ちなみに音質のほうはその人の工作力次第で、
うまく出来れば結構音は良いと思う。

で、オーディオを初めて部屋に設置する時、スピーカーをどこに置くか、
これもまた問題でね、ここからが本当のオーディオなわけですよ。

ステレオの場合、一般的には部屋にテレビがあって、その両脇に何の疑問もなく置く、
というふうになると思う。
まぁそれで良いんですよ。けどそうするとね、「サウンドステージに奥行きが無くなる」
とか言われるんですよ、オーディオマニアに。

いや、そんなことは一般的に言って
ほんとにどうでも良いことなのは分かっているんですよ。
けどね、まぁせっかくだし出来ることなら下のようにね、

「スピーカーの間隔は1m以上で、スピーカーの間にはできるだけ物を置かない。
スピーカーの後ろの壁から30〜40cm以上、横の壁からも30〜40cm以上、
高さはツイーターがちょうど耳の高さにくるように、出来れば専用のスピーカー台、
もしくは頑丈な棚の上に置く。」
ということになると。

でね、ここにいろいろと距離なんかが大雑把に出ているわけですが、
ここのところをそれぞれの部屋とスピーカーのバランスで変化させていくと、
そんな試行錯誤で音はどんどんと変わっていくわけです。
それがまぁオーディオってものなんですよね。
すごいマニアはもうmm単位で動かして音の良し悪しを判断してますからね。
そういうのを「調整」とかって言うんですけど、
調整が行き届いたシステムってのは、ほんとに些細なことで音が変わるんですね。
僕は分からないですけど、
雨だったり雪だったり暑かったり寒かったりでも音は変わるんですよね。
そうするとね、「今日はスピーカーの機嫌が悪いなー。」なんて、
ついにスピーカーを擬人化しだすんですね。
まぁそうなったら楽しいオーディオ生活の泥沼に
どっぷりとハマっているということですからね〜。
でもそこまでしてね、「スピーカーを育てる」っていうような意識ってのがないとね、
最終的にはなかなか良い音にはならないですよ、正直に言って。

「楽しい音楽生活」が「苦しいオーディオ生活」にすり替わっている場合も多々あるので
要注意ですよ〜。


2008.5.13

(N氏に宛てたメールの一部を転載、改訂)

昨日は参加してくれた皆さんから「良かった」っていう感想がぞくぞくと届きました!
当日も「良かったよ」と言ってくれた人が多かったのですが、
こう言う反応があると本当にやって良かったなぁとシミジミと思いますね。

まだまだ「進化」どころか「改善」あるのみなのですが、
みんなが面白がって参加してくれる場になっていったらなと思っています。

でもただむやみに広げたいというのでもなく、質を保ちつつジワジワと広げていきたいというのがあって、 具体的にどうしていったら良いのかが結構な悩みどころです。

今のところ夫婦だけでやっているので、お互いの考えも常に交換し合えるので良いのですが、
ここにどういう形で他の人に入ってもらうことができるのか、
まだまだそこまでは考えられないです。

一応今回の案内状でのフリーアドスペースやコラムがその初めの実験だったのですが、
もっともっと練っていかないといけないなという感じです。

いつかはフリーペーパーなんかも発行したり、
ウェブでもコンテンツを作ったり出来たらなと思っています。
そうなってくるとやはり2人だけでは難しい。
やはり問題は時間と金なんですが・・・。
制作側で参加してくれた人には出来るだけ何かしらの還元が必要だと思っているのですが、
そこのところが非常に難しいです。


2008.5.12

家宴 vol,2も無事に終えることができました。
来て下さった皆さん、来れなかった皆さん、関係者の皆さん、
今回もありがとうございました。

僕が今回の家宴で一番感じたことは、それはやはり“家”という場の力だと思います。
ほんとに自分で住んでいても、あの家には人をリラックスさせるような
特別な力があるのではないかとさえ思います。
あの家のもつ不思議な心地良さがみんなを満足させている大きな要因ではないかなと・・・

来ていただいた多くの方に「良かったよ」と言ってもらえたのは、
もちろん出演して下さったオモイデさんとムジカントさん、
そして松尾さんの豪華な料理と手伝ってくれた友達みんなのおかげなのですが、
初めて出会う方同士が本当にリラックスして話しができるのは、
その入れ物であるあの“家”そのものが持つ心地良さ、
これがやっぱり地味に影響しているのかなと感じました。
そして、その「良かったよ」という言葉にはこの場でのリラックスから生まれた
コミュニケーションも多く含まれているのだと思います。
これが、貸しスペースで借りたような場で同じようなことをしても
今回のような満足は得られなかったかもしれません。

僕たちの住んでいるような、築20年を越える団塊の世代が一生懸命になって建てた家は
今はもう時代の流れから住みにくいというレッテルが貼られ、
日本中で余っている状態ではないかと思います。
ちょうど僕たちの世代はそんな遺物をうまく使うチャンスをもらえたのだなと思います。
僕たちのやっているようなことがこれから他の場所でもどんどん多くなっていくのではないかと、そんな期待を抱いています。


2008.4.25

昨日たまたまファッションとダブらせてオーディオについて考えたら、
僕の中では意外とうまくはまったと思った。

ファッションの場合は見た目ですぐ良し悪しがわかるけど、
オーディオの場合はすべて音だからなかなか判断が難しい・・・。

ただファッションと違って、オーディオのブランドってほんとにどこも似たり寄ったりで
選択の幅がかなり狭いと思う。
それはオーディオには参照できる過去がファッションとくらべて圧倒的にない、
比較にもならないくらいないってのが関係しているような気がする。

もっと言うと文化として堆積してきたものが無さ過ぎるってのがあるんだろうな。
それはオーディオは文化じゃなく技術だからかもしれない。
じゃあ、技術として堆積してきたものはあるのだろうか?
ファッションにしたって技術と共に発展してきているんだし、
逆に今ではもうない技術だって素材だってある。
そうやって、脈々とファッションの歴史は積み重なって、
現代のアートとか思想とかとも複雑に絡み合って発展を続けているのだと思う。

ちと話がおおげさになったな。

とにかく「右」だ「左」だ、「前」だ「後ろ」だ、という議論の中で
「上」だ!っていう方向を見せてくれるようなブランドが早く現れてほしい。

まだまだ「前」だ「後ろ」だ、「右」だ「左」だという平面的な世界の
しかも狭い範囲であーだこーだとやってるような気がする。

初めて「上」っていうそれまでの次元を飛び越えるような、
オーディオ全体を包括しそれを俯瞰できるような思想を持ったブランドが現れてほしい。

どこかでオーディオ大回顧展っていう展覧会ないかな・・・。
誰かがそういうのを体系化してまとめて見せてくれないかな。
もちろん音も聴けて・・・。

オーディオってそこまでメジャーじゃないから無理やね・・・。


2008.4.24

オーディオの高級ブランドは、
シャネルやグッチみたいなファッションブランドに例えられるだろう。

僕はそんな高級オーディオブランド機器を雑誌や販売店で見て、
「すげーなー、カッケーなー、さぞかし良い音すんだろうなコノヤロ!」
と愛憎の眼差しで見ているのである。

けど、臍曲がりな性格のせいで、
「高級ブランドでガチガチに固めたオーディオを使っているなんて
シャネルで固めたハイヒール・モモコみたい(古っ!)でなんだかダサいぜ!」
とか思ってしまう。

ハイヒール・モモコが運悪くシャネルが似合わないだけで、
シャネルの服を着こなせる人が着れば全身シャネルでも普通にカッコ良く見えるのか?
オーディオもその高級ブランド機器を使いこなせる人だったらダサくないのか?
それも機器が高ければ高いほど使いこなせる人はカッコ良いということになるのか?
オーディオとファッションを一緒にしても仕方ないが・・・。

けどファッションに関しては、シャネルを着こなしたカッコ良い人と、
どこのブランドかも分からないマイナーブランドの服や自作の服で
ほんとに自分に似合う着こなしをているカッコ良い人とでは、
僕は後者の方が断然ホントの“カッコ良いマン”だと思う。

今はかつて程僕自身ファッションに熱心ではないが、
今だって少なからずこだわりだってあるし、それなりに楽しんでもいる。
昔からのお気に入りのファッションブランドがある。
それはコム デ ギャルソンというブランドだ。
上のようなことを言っておきながら結構なメジャーブランドだ。
なぜこのブランドが好きかってのはいろいろと理由はあるが、面倒なのでここには書かない。
なぜか今でもこのブランドの服が自分に一番似合っていると思い込んでいる。
このブランドの服を着ると安心して自分の格好ができると思っている。

たまにどこのブランドかすぐに分かるような着こなしをしている他人を見かける。
もちろんそれを見てすぐ「ダサい!」とは思わない。
けど、それがこれ見よがしにカッコ良く見えた時、
その人が服に着られているなと思ったときに結局「ダサい。」なと思う。
それはその人自身の個性ではなく、その人の着ている服の個性の方が
強く前面に出てきてしまっているように見えるからだと思う。

では、全身シャネルの人にその人自身の個性を感じることができるのか?
それがどれだけモデル体型で一分の隙もなく似合っていたとしても、
その人に個性を感じるのか?

思うに、どのブランドを選んだとしても、それが体型だけじゃなく、
ほんとにその人に似合っていて、もっと言えば、その人が着ることで
そのブランドの個性がその人のもともと持っている個性と同一になることが理想なのだと思う。
その人が自分自身の個性というものに対して
少なからず何かの考えみたいなものを持っているのかがポイントなんだと思う。

では、僕にとってオーディオにもそれを当てはめることができるのか?

まだ高校生とか学生の頃、僕がファッションにはまりきっていた時と、
今オーディオにはまっている自分が何だか本当に良く似てると思う。
ファッション雑誌を毎日飽きもせず隅々まで眺め、
買いもしないのにいろんなブランドの店に行き、自分に似合わないであろう服に憧れ、
また実際にそれを着て似合わない自分の体型を疎ましく思い・・・。
ほんとに同じことしてるなぁ・・・と。

あの当時は純粋なファッションへの憧れを自分なりに表現していたんだと思う。
そのうちに人と違うということを見つけていって、
自分に似合う、また自分しか似合わない格好というのか
イメージみたいなものを固めていったのだと思う。
その通ってきた道順みたいなものが
そのままオーディオにも結構当てはまるんじゃないかと思う。

今はオーディオへの憧れの段階なのかな?
けど、すでに人と違うことをやりつつあるなぁ。
まだまだ自分だけのなんてものはないな・・・・。
自分の個性ってものが全然明確じゃないんだろうな。

そういう意味で言えば、
オーディオの達人に言われた「普通」ってのはまったくその通りなんだな。
あの「普通」ってのは多分、まだまだ個性ってのに辿り着く前の
ただの「普通」ってことなんだな。


2008.4.22

先週土曜日、憧れのオーディオの達人が我が家を訪問された。

なかなか本格的にオーディオをやっている方に我が家の音を聴いてもらう機会が意外と少ない。
音楽好きな方々には我が家の音はそこそこ好評なようで・・・って、そういった方は
普段ラジカセかミニコンポかiPod+イヤフォンなどで音楽を聴いているだろうから、
我が家のオーディオの大げさな見た目も相まってよく聴こえるってのも実際あると思う。
しかしオーディオの達人はそんな見た目とか機器の値段なんかで音を判断することなく、
良いか悪いかを正確に判断される。
そんな達人が我家の音をどうお聴きになるのか・・・、
たぶんいろいろとご指導・ご指摘をいただけるだろうと期待半分・不安半分でこの日に臨んだ。

まず部屋に入ってこられてすぐこの部屋の良さを非常に褒められた。
広さと天井高のバランス、また壁や天井・床の素材とか、
また話し声の響き方なんかを確かめられてたのだと思う。
「この部屋で良い音が出なかったらちょっとマズイんじゃない?」なんて言って
音を出す前に脅された。

では、ということで僕が普段聴いている音楽を流すと、
1分もしないうちに音楽とは関係のないリビングの照明の話になった。
で、僕は一緒に照明の話をしながらも次々と音楽を流し続けたのだが、
一向に音についての話にならない。

そこで僕は当然「やはりこの音が良くないんだな・・・」と思い始める。
やっぱり低音が膨らんでいるかなとか、音に滲みがあるなとか、奥行きが出てないか、
定位がはっきりしない・・・などなど、まだ何も言われてもないのにいろいろとダメなことを
無言のうちに指摘されているかのような気分になって不安になる。

こんな風に達人は音のことには一切触れずに
逆に僕の方からこのシステムの欠点を暴くことになった・・・。

恐るべし!オーディオの達人。

で、一日非常に楽しい時間を過ごさせていただいて、そして無事にお帰りになられた。

後日、メールで「もっといろいろとご指導頂けると思っていましたが・・・」などと
調子に乗って送ったのだが、そのご返事に
「とても素敵なお部屋で、音は想像よりずっと普通(一応褒め言葉のつもり)でした。」
というコメントをいただいた。

この「普通」って言葉を「褒め言葉」に使うところがやはり達人ならではでないか!

僕はこの「普通」って言葉を頂けたことを思いっきり自慢したいぞ!


2008.4.21

世代間ギャップ

音楽の趣向は世代により変化していくようだ。
ほとんどのオーディオマニアのソースはジャズとクラシックである。
それと60年代〜80年代あたりのロックと。

これらの音楽は、個別に見れば好き嫌いはあるが、だいたいは僕が聴いても
十分おもしろく、これにハマって聴きこめるだけの音楽だと思っている。

しかし、これらの音楽ばかり聴いているオーディオマニアには現代のソースであるエレクトロニカやポストロックが受け入れられないようだ。 そんな彼らも「いや、そんなことはない。ビョークやレディオヘッドは聴いているぞ!」と言うかもしれない。 もちろんビョークやレディオヘッドは最先端のエレクトロニカやポストロックの実験の成果をうまく纏めたポップミュージックなのだから、それはエレクトロニカやポストロックを受け入れたの同じなのかもしれない。 でもなぜマイナーなエレクトロニカやポストロックのアーティストの音楽になると急に理解不能状態になるのだろうか? どこで世代の断絶が起こっているのだろうか?

ついこの前、実家に帰った時にテレビを久しぶりに見た。
その時「ごくせん」というドラマがたまたま映っていた。
僕は少し見ただけで気持ち悪くなった。
そこで出てくるシーンも会話も役者も全部変だった。
どこをとっても上澄みだけで出来ているようなペラペラなものに感じた。
しかもその上澄み部分ですら人をバカにしているかのような低クオリティーなものだと思った。
こんなドラマほんまに誰が見てるん?って思ってたら、今日のヤフーニュースで
視聴率26%と書いてあった。なんか大丈夫か?と思った。

これは僕にも世代間ギャップが出てきたということなのか?
僕の感覚やら思考やら好みやらがいつの間にか現代とずれてしまって、現代のソースを受け入れられなくなったオーディオマニア状態になっているということなのか? マイナーなエレクトロニカやポストロックを聴いたオーディオマニアは僕が「ごくせん」を見て思ったような感想を持って思考停止してしまうのだろうか? 僕はエレクトロニカやポストロックを聴いて思考停止して音楽を楽しめないオーディオマニアが何だか少し勿体ないのでないか思っていたが、現代のテレビドラマを楽しめない僕はそれで結構と思っていたりする。 僕はこのドラマの楽しみ方を知りたいなんてまったく思わない。なんというか、生理的に無理なのである。

実際には僕もこうやって現代の人との感覚はどんどんずれていっている。

そして僕もいつか「今時の若者は・・・」なんて言いだすのかもしれない。

すでにこの文章自体がそういう趣旨を含んでいるな。


2008.4.16

スピーカーからの出音が最終的な原音となる電子音楽にとって、
アコースティックな楽器と同じようにスピーカーからの出音を
マイクで録音するということは、むしろ自然な考え方である。
以前からこれをいつか実現したいと思っていた。
で、次の家宴でのライブでそれを実現するため、
コンデンサーマイク2本を新たに導入した。
部屋中央のリスニングポイントに適当に2本マイクを立てステレオ録音とし、
アナログLPの音をマイクからとラインからと同時に録音した。

僕はマイクで録音した音は、電子音が部屋の残響を少し含んで、
程よく丸くなったような心地良い音を想像していた。

それが、実際には部屋の残響だらけの音で低域も高域もなくボケボケの音だった。
ラインでとった音の方は当たり前であるがクリアでレコードの音そのままである。

自分の耳で聴いている音とのギャップにかなり驚いた。
ちなみにこのコンデンサーマイクはわりと本格的なもので、
スタジオなどでも実際に使われるようなものである。

ということは、実際に耳に入ってきている音はこんな音で、
これを僕の脳が勝手に補正して普段音楽を聴いているということだろうか?

もちろんマイクセッティングが悪すぎるってのもあるし、
ポンと置くだけで想像通りの録音できると思っていた考えが甘すぎたのもある。

脳の補正は確かにあるだろうが、あそこまではさすがに無いだろう。
とにかく、これからマイクセッティングをあれこれ工夫するしかない。


2008.4.14

さて、アイソレーショントランスの個人輸入が無事にできたのだけれど。

これなくしては落ち着いて音楽を聴いていられない!ってほど、
前回の試聴によってその歴然たる効果は痛いほどに実感していた。

これを今回4個も導入してしましまった。
購入が円高とちょうど重なり、お値打ち価格で購入できたのはラッキーであったが、
それでも僕としてはかなり思い切った購入である。

というのは現在、システム中のデジタル機器の割合がかなり
上がってきたので、どうしても1個では足りない環境となっている。
PC・チャンデバ・オーディオI/O・CDドライブとこれら前段機器が全てデジタルである。
これらをアソレートすればノイズ問題は一応安心というわけである。

で、早速組み立ててシステムに投入してみた。

すごい!
全然違う。

アクセサリーを導入したというような変化ではなく、
システムを全部入れ替えたかと思うくらいの変わり様である。

何でここまで変わるか?!

なんだか高級な音が出てきてるような気がする・・・。

音が自然に出過ぎて、むしろ凄みすら感じる・・・。

力強くなって、柔らかくなって、スムーズになって、
広がって、深くなって、厚くなって、とか他いろいろ・・・変化した。

良いです。

思い切って4個導入した甲斐があった。
今ではこれは安い買い物だったとすら思っている。


2008.4.2

前回、音量調節の不便さについて少し書いた。
気になって調べたのだが、アプリ上で音量を下げると
ビット落ちでデータが削られていくらしい。
僕の場合、その上チャンデバの方でも入力ゲインを12dB下げ、
さらに各チャンネル出力でもそれぞれ3〜9dBもゲインを下げていた。
トータルで考えるとかなりのデータロスをしていると思う。
また実際にチャンデバの入力ゲインを下げると極端に音がぼけるのも気になっていた。
最低でもチャンデバでの入出力ゲインを0dBにして使いたい。
今のシステムにはチャンデバからアンプにいくアナログ信号、
ここにアッテネータを挿す、それしかトータルの音量を下げる方法はない。

このアッテネータをどうするか?
出来るだけ音質を犠牲にせず、しかも安く済ませたい。
とりあえず、ボリュームで良いものがないか調べてみた。
調べるとすぐにいろいろと見つかるのだが、よく分からないのは
10k/50k/100k/250kΩと抵抗の値が違うものがあることだ。

10kΩよりも250kΩの方が効きが良いのか?と最初思っていた。

しかし、さらに調べてみてこの値はボリュームの効き具合などではなく、
前段の出力インピーダンスに合わせるための値であることがわかった。

それでいくとチャンデバの出力インピーダンスは160Ωである。
10kΩでもインピーダンスが高すぎる。
インピーダンスが高すぎると高域特性が悪くなるということも調べて分かっていた。
業務用であれば600Ωからボリュームはある。
が、めちゃ高い・・・。

で、よく考えてみると我が家での使い方は、一旦音量が決まればボリュームは固定される。
となるとむしろ、ボリュームよりも固定抵抗を通す方が音の劣化は抑えられるはずだ。

と、まぁ当たり前のことであるが、なにぶん素人なもので
こんな単純なこともいろいろと遠回りしないと分からないのである。

しかし固定抵抗と簡単に考えたが問題の抵抗の値の決め方である。

ほんとに世の中には親切な人がいる。
web上にフリーで抵抗値を計算してくれるソフトを見つけた。

入力の値は業務用ボリュームと同じ600Ωとした。
ここの値をチャンデバに合わせて160Ωにするか迷ったが、このチャンデバも
本来は業務機なわけだし、インピーダンスにも多少の変動はあるだろうから
小さいよりも大きいほうが安全であると考えた。

僕の予想ではだいたい-50dBは必要だと考えていた。
もし音量が足りなかった場合に備えて-30dBと-20dBの値も出しておいた。

で、早速抵抗をいくつか買ってきて試した。
ちなみに抵抗1本10円で予備の分も含めてたった160円であった。安っ!

まず、-20dBになるように高域用の自作アンプの入力端子に直接抵抗を半田付けし音出しした。
やはり-20dBではまだまだ音量が上がりすぎる。
-30dBでも少し大きい。
やはり予想通り-50dBでちょうど良い。

メインの12面体につないでいるアンプには、少々乱暴だが
チャンデバからアンプにいくRCA線を途中でちょん切って抵抗を挿した。
それについては途中で専用BOXを作って、加えてさらにケーブルをもう一本足すよりも
こちらの方がシンプルで音にも良いはずである。
こちらは-30dBで高域とつながった。

低域のアンプにはもともとボリュームが付いているので、
それをさらに絞って上とバランスさせる。

で、出来た時には夜の11時も回り、小さな音しか出せない状況であった。
それでも音は以前よりもしなやかで強い芯を感じさせるものであった。
そしてS/Nがさらに向上している。
何よりも入力ゲインを0dBにできるのが精神衛生上良い!

今回は抵抗には金属皮膜抵抗を使ったが、ここにもっと高精度な抵抗を使ったらどうなるか?
というまたまた泥沼な考えが浮かんできてしまう・・・。

とにかく今は以前から気になっていたことがすっきり解決して安堵している。


2008.3.27

昨夜、ネットで注文していたケーブル類が届いた。
僕がオーディオI/OにAES/EBU出力が付いていることにこだわったのは、
チャンデバのデジタル入力がAES/EBUだったからだ。
多くのI/Oのデジタル出力はS/PDIFのコアキシャルで、AES/EBUとは
プラグ変換で実用上はつながるみたいだが、実はインピーダンスが75Ωと110Ωで異なる。
せっかくのデジタル接続であるなら精神衛生上ここはやはり揃えたい。
今回ケーブルにはGOTHAMの110Ωデジタルケーブルを使い、
プラグもノイトリックのデジタル用を使って自作した。

最初、音量調節を間違えてフルボリュームの音を出してしまった。
夜の9時を過ぎていたので結構焦った・・・。

で、わかったのはiTUNEなどのアプリでCDを再生する場合、
I/Oのミキサーで直接音量調節ができず、アプリ上のボリュームで
音量調節をすることになるということだ。
iTUNEの場合、ボリュームを少し上げただけで爆音が出てしまうので、
ボリュームは0のところから1mmほど上げた位置になった。
それでもまだ音が大きいのでiTUNEのイコライザーのゲインでさらに音量を絞っている。
音量調節の幅が1mmしかないので実質ON/OFFの切替で細かな調節が出来ないのが不便だ。

で、しばらく聴いてみたが、
思ってたよりも変化がなかった!!
もちろん、S/Nも良くなっているし細かい音もよく聴こえ解像度も上がっている。
ただこの変化は今までの方向とリニアなつながりを感じ、
「アナログからデジタルに変わった!」というような言葉でイメージする程
大きな変化ではない気がする。
普通に良くなった。
不思議なほど音色や音の佇まいに違和感がない。
もしかしたら、スピーカーの個性が強すぎて音が変化しにくいシステムなのかもしれない。
しかし、今まで激変と言えるような変化を何度も経験しているし、
実際、この直前で試したプライトロンでの変化は相当なものだった。
もしくは、これは単純に心理的なもので、
プライトロンの場合「そんなに変化しないだろう」と思って聴いたのと、 今回のように「これはすごく変化するぞー!」と過剰に期待して聴いたということでの違いかもしれない。

いずれにしても、数時間のリスニングの感想ではあるが、
真空管プリからデジタルプリになったことでゴリゴリな音になったとか、
ガサガサな音になったとか、ショボショボな音になったということはないので良かった。


2008.3.26

5月のライブに向けてレコーディング環境・リスニング環境を整える為、
新しくオーディオI/Oを導入した。MOTUのTRAVELERである。
これはサンレコのオーディオI/O聴き比べCDを参考にして選んだ。
ただ僕のシステムにおいてはあまり選択できる幅は広くなく、
それはAES/EBUアウトが付いているものに限られるからだ。
その条件から以前音も聴いたし、また世間の評判も良いRMEは不可であった。
僕が気になっていて、また条件にも合うMETRIC HALOもCDの比較に入っていた。
結局僕が良いと思ったのはAPOGEE、DIGIDESIGN、FOCUSRITEとMOTUだった。
期待していたMETRIC HALOはボーカルに艶がなく、定位や音の分離ははっきりするのだが、
他のI/Oと比べてこれだけ不自然なくらいそれが強調されているような気がした。
MOTUを選んだのはボーカルが自然で低域も濁りがなく
音のヌケが非常に良いのが気に入ったからである。
しかしMOTU896HDの値段はやはり高い。
いろいろと調べた結果、その下位モデルのTRAVELERがAES/EBUアウトも付いている。
値段に約5万の差があるが、本国での価格差は100ドルくらいであった。
これは多分マイクプリの数とACアダプター/電源内蔵の差であると推測して、
中のAD/DAやマイクプリの質は変わらないと判断した。
そしてこれは逆に僕としてはかえって好都合で、
内蔵電源よりもバッテリー駆動や安定化電源による音質向上を試せる。

そして運良く本国とあまりかわらない値段で新品を見つけることができた。

これで我が家のシステムはプリアンプレスになる。
そしてプリアンプのかわりにこのTRAVELERが我がシステムの中枢になる。
TRAVELERはアナログ8CHの入力があるので、ライブでのミキサーからの2MIX、
またレコーディング時のマイクから信号、そしてレコードと映像の音声も直接TRAVELERでAD変換して このデジタルミキサー上で入力切替とボリュームコントロールができる。

そしてAES/EBU出力でデジタルのままDCX2496(チャンデバ)に入り、
デジタル上で帯域分割することができる。
つまり、プリからの長いアンバランスケーブルもチャンデバの安いADも通さずに
アナログ信号を最短でMOTUのADに通せる。
無駄なAD/DAが無くなり、また接点での劣化とノイズ混入も防げるという訳だ。
そして将来的にはここに高性能クロックも挿すこともできる。

ただ、気がかりなのは、アナログのプリアンプを通さないことで、
すなわちデジタル領域での音のやりとりを増やしたことによるメリットは
いろいろとあるのだが、 はたしてそれが音/音楽の躍動感につながるかどうかは分からない。
また今では「デジタル上で音は劣化しない」というのは
ただの幻想だということは常識でもあるし・・・。


2008.3.13

音楽の中に入って遊ぶということが好きなんだと思う。

音楽に自分を持って行かれるというか、冷静に音を聴いているつもりなのに、
いつの間にかその音楽の持つグルーブの中で漂う感じ、
自分の意識を全部音楽に預けてしまってその音楽にされるがままなる感じ。
そんな状態が音楽を聴いているとよくある。

僕は以前よくクラブなどで憑かれたよう踊っていた.
今は音楽を聴いて頭の中で踊っているような気がする。

体を使って踊っていた時は、頭の中は特に何もイメージはなく、
ただ体が純粋に音楽に反応してそれに身を任せている感じだった。
それは恍惚とした感覚で快楽そのものだった。

今は頭の中に音がビジュアルとして様々に展開されていく。
スピーカーの前で目を閉じて聴いていると、実は頭の中ではなく
実際に目の前でそれが展開されているように感じる。
目を開けて見える部屋の景色の方が不自然に思えたりする。

どちらも音楽の中に入って遊んでいるいう感覚だ。


2008.3.12

実は去年の夏、本気でスピーカー変更を考えた。
自作12面体スピーカーではいつまで経っても
音の解像度や力感や定位はでないのではないかと思い始めた。

それは12面体の構造上、位相がめちゃくちゃになるとか、F特もダイナミックレンジも狭いとか、何よりユニットの能力が低いのではないかとか・・・、
そんなことが気になりだしたからだ。
それで市販の良いスピーカーはないかと探し出した。

探しているうちに思い始めたのは、このリビングオーディオは人に見せるための、
他とは違うわかりやすい特徴を持たなければいけない、
その特徴がこの空間の一つの大きな魅力になるだろうということだ。
市販の優れたスピーカーを導入し、今とは違う良い音が出たところで、
空間の持つインパクトや魅力は薄くなる。
それで変更を思い直した。

無指向性スピーカーでは、一点のリスニングポジションでのみ良い音ではなく、
センターを外したところに居ても音の遜色が少ない。
ライブハウスとしての機能を考えればこれは重要だ。
そして無指向性の良さは自然な発音感とまた空間への広がりだと思う。
特にボーカルなどのアコースティックな音の自然な佇まいが良いところだろう。
それはスピーカーを意識させない音と言えると思う。

その代わり、触れるような音の存在感・質量・重量感とか顕微鏡で見るような解像度、
ピンポイントで微動だにしない定位などが指向性のあるスピーカーには及ばないのだろう。

もしかしたら、それは今のスピーカーがそこまでの能力を持っていないだけかもしれない。
本当に優れた12面体無指向性スピーカーが作れたなら、それも可能であるかしれない。

ただ僕はそんな音の重量感とかピンポイントの定位とか、これ見よがしのすごい音を好むのかというと、
そうではないと最近わかりはじめた。

軽い、淡白、自然、これが今の装置の音の特徴のようだ。
ここにまだ、柔らか、そして明るい、も付きそうだ。
一言でいえば、"軽み"だと思う。

ただこの音は意識的に目指したわけではなく、
その時その時の自分にできる最善の音を求めた結果なのだ。

だから僕は装置に音の個性を押し付けているわけではなく、
僕の方が装置からどんな音が出るのかを教えてもらっているようなものだ。

そして目指すのはここに、深いが、入ればなお良いと思う。
軽みを洗練させ、その先に深みが出てほしい。

実は最近試したプライトロンのアイソレーショントランスで
その片鱗を垣間見ることができたのだが・・・。


2008.3.11

最近、僕のオーディオが大きく動いている。

一つはデジタルチャンネルディバイザーの導入

もう一つはツィーター専用自作アンプの電池駆動化である。

スピーカーのネットワークをアナログからデジタルのチャンデバに変更したことで、
以前よりも音が全体的にしっかりとした骨格のある音になったと思う。

各ユニットのクロスをいつでも細かく調整出来るので、かなり音を追い込める。

12面体は今まで上も下もネットワークを入れず、出しっぱなしにしていたが、
やはり上下に適切な帯域で音を切ってクロスしつなげる方が全体に音の自然さが増す。
発音方法が全く違う上と下がほんとにバランスよく何の違和感もなく繋がるようになった。
特にドラムやベースなどの中低域のちょうど12面体とスワンのクロス周辺の楽器の音が強く
実在感が出るようになった。
キックやベースの低域の沈み込みも深くなった。
スネアやキックなどのアタックの音が上下でかぶらず出るようになったからだと思う。
今は下のクロスの帯域に関しては、ほぼベストの位置を見つけることが出来たと思っている。
上のツィーターとのクロスはまだまだ試行錯誤しそうだ。

2つ目の電池駆動化はツィーターのノイズ対策のために行った。
ツィーターは高能率なため、アンプに電源を入れるだけでシーーーーというノイズが出てくる。
しかも今までACアダプターのスイッチング電源を使っていたのでこの電源がノイズの原因だと思っていた。

自作のデジタルアンプが電池駆動できることを確認して、アルカリ乾電池10本を繋いだ。

まずツィーターに耳を近づけてノイズの出具合を確認してみた。
しかし残念ながらノイズの量はほとんど変わってないように聞こえた。
電池を繋いだ状態で音楽を聴くと、予想以上に音が良くなっていた。
まず音の切れ際、減衰の仕方、余韻の伸び方がきれいになって
音の広がりが左右に随分と広がったように感じた。
全帯域の分解能も上がったようで、楽器の音の分離が良くなった。
激しい音楽でも一音一音が潰れない。

と、ツィーターだけの変化のはずが全帯域に効果が出たのでかなり驚いた。

今は電池をエネループにしている。
音の方は残念ながらアルカリ電池の方が良いようだ。

連続10時間ほどで電池が切れる。

勢いで充電器4個と電池32本を購入したので結構な出費になった。

ツィーターのノイズ対策は依然として続けないといけない。


2008.3.9


2008.2.22

オーディオって茶の湯に置き換えれば、
アンプとかスピーカーとかの高級オーディオ機器が茶室で、
名のあるアナログのオリジナル盤なんかが茶器とかの道具ってことになるのかな?

そう考えれば、高級なオーディオ機器とかオリジナル盤なんて
一つも持ってない僕なんかでもオーディオを楽しんでいるように、
当時も茶室を自作したり、有名な茶器のコピーなんかで茶の湯を楽しんでいた
茶人なんてのも沢山いたんだろうな。


2008.2.20


2008.2.19


2008.2.14

音の響かせ方っていうのはほんとに難しくて
当然だがスピーカーの後ろに音を反響させる
ものを置くか、吸音するものを置くかで
音の聴こえ方が変わってくる。

うちの12面体の後ろのパネルがどれくらい
音に影響しているのかは、スピーカーの後ろ
左側だけにパネルを置いたとき、左の音だけが
やけに立体感とか奥行きが出てかなり驚いた。

実際には、吸音するか反響させるかは、
どちらが良いとかではなく、吸音材でも反射板でも
スピーカーの後ろ天井近くで使うのか、
床の方で使うのか、それも部屋が違えば
またそれぞれ良かったり悪かったりする。

特に低域は定在波が出来やすいので、どうやって
部屋の角に溜まる低音を逃がすかを考えなければいけない。
安易に吸音だけしようとすると高域も痩せる。
そのために、上手く高音を拡散し低音だけを吸収するような
ボードも売っている。
あのボードはそれを参考にして自作した。
もちろん商品とは違って厳密な計算によって作った
のではないが、先に書いたような効果があった。

また、音はスピーカーから出てきた音だけを
調整するのではなく、ほんとに不思議なことだが、
アンプやプレーヤーをどのように設置するかでも
音の響き方が大きく変わってくる。
先日伺ったお宅では、オーディオ専用のラックから
おしゃれなサイドボードにオーディオ機器を移したのだが、
その変化が想像以上に大きくて驚いた。

以前の訪問で僕は、

>とにかく音が濃い!持ち主の方は
ずっと音が重いって言ってましたが。
>低音の沈み込みが深いのなんのって。
>解像度も高いし、音の実在感も濃いぃぃぃ。
>パーカッションがはじけるようでめちゃリアル!

と、いう感想を持った、
で今回は

音の濃さや重々しさがすっかり無くなっていた。
低音の沈み込みも以前のような
ずーんっというような感じはなく、フワッと出ている感じ。
解像度は相変わらず高い。
確かにスネアやパーカッションが
以前のように飛んでくることはないが、
スピーカーより奥で音場が展開していた。

まさに真逆といってもいいような変化であった。

以前の音は重さとか硬さとか形みたいなものがよく出て、
まさに音を観察するのに適した音だった。
聴き応えという意味ではほんとに快感であった。

今回はうちの家の音とよく似ていて、
軽くて広がる音だなと思った。

同じシステムからこんなに違う音が出るものなのかと
驚かずにはいれない。

スピーカーの後ろのパネルだけでなく、機器の下に敷くボードや
ラックの方が音の響かせ方が変わる可能性もあるということだ。


2008.2.13

例えばジム・オルークみたいな大物のアーティストを呼びたい
という夢があったとしても、今の自分のキャパを考えれば、
それは例え知り合いを介して今すぐに呼べたとしてもするべきでない。

まず、自分でその状況が想像できない。
というのは、それ全体で起こるであろうこと丸ごとを掴めていないということだ。
自分が想像できる範囲で物事を動かさないと後でそのシワ寄せがくる。
大きくキャパを超えることをしようとすると、そのことばかりに手がかかって、
いつもできることや、いつもしなければいけないことの方が疎かになる。

自分のキャパを超えて一見ギリギリなんとかやり遂げたかに見えたとしても、
後に普段していたことや、しなければいけなかったことが出来ずにいたことで
結局何も残らなかったということがある。

一番恐れているのは、自分個人では手に負えない政治的な要素が大きくなることだ。
そうなってしまうと全部をもう一度立て直すのはかなり難しい。
僕が知っているある会社が今まさにそういう状況だ。
ただこれは結果的にそうなったことであって、
もっと冷静にいろいろと分析できていれば全然回避出来ていたことだと思うけれど。
まさにキャパを超えた見通しの甘さが引き起こしたことだ。


2008.2.12

昨日、sampleで何組かのアーティストのライブを聴いて思ったのは、
明らかに僕たちのスペースに合わない音楽っていうのがあって、
いや、それは最初から分かっていた。

とにかくライブハウスでライブをするという形態が
今あるままの状態じゃないと機能しない音楽が多いということだ。

もしかしたらというか確実に、ライブハウスでライブをするということ自体が
音楽を創ることにある制限を作っていて、
アーティスト達は無意識的にも意識的にもその枠内で音楽を創っている。

僕が今、僕たちのスペースで想像しているライブの風景は
明るく、清潔で、楽しい風景だ。
外は明るく窓からは景色が見える。
鳥が鳴いていたり犬が吠えたり子供の遊んでる声なんかが聴こえてくる。

不必要に大きな音は出さない、普段音楽を聴いている音量よりも少しだけ大きな音。
小さな音もすごくクリアーに聴こえる。
明るく繊細で優しかったり懐かしかったりする音楽。
ダークで鋭く尖ったカッコいいものはこの場所には合わないんだな。
そんな音楽をみんなは静かにコーヒーやお茶、あるいは
お酒なんかを飲みながら聴き入っている。

ライブが終われば、そのまま出演者や関係者だけでなく
観客も交えて飲んだり食べたりする。
その日のライブのことや、最近聴いた音楽について、などなど・・・、みんなで話をする。

そして誰かが勝手に音楽を流す、入れ替わり立ち代わり、その場にあった音楽が流れている。
もしかしたら楽器まで出てきたりして、ライブの続きなんかが始まるかもしれない・・・。

なんか、こんなライブ風景ってありそうでない。
少なくとも自分の周りでは。

多分、こんなライブ風景を否定する人も多いと思う。
こんなお調子者の集まりを嫌悪する人もいるだろう。

けど、この音楽の風景に音自体が持つ深さ・奥行きがないということはない。
音を共有することで静寂を共有し合うような、
そんな共感の渦がこの場にできるんじゃないかと夢見ている。

けど、多分実際にはというか、もっとほんとは分かり易く、
甘いゆったりとした時間が少しはあったっていいじゃないの?
少し日常から浮き上がってるような気分にしてくれる場や時間。
現実の暗さやきつさなんて、いつでもどこでも味わえるだから。

なんて僕は思う。


2008.2.10


2008.2.7

歯車なんだと思う。
全部歯車として動いているのではないか。

自分ばっかりどれだけ早く回っていても
周りとうまく噛み合っていなければ
ボロボロにすりきれていく。
噛み合っている歯車が多すぎれば
簡単には身動きが取れなくなる。
自分と噛み合っている歯車も
また別の歯車と噛み合っていて、
その別の歯車が動かなければ
自分も動けなかったりする。
隣りで噛み合っている歯車が動けば
僕もつられて動き出す。
周りの動きに敏感に反応すれば
自分も簡単に動ける。
自分の動きたい方向だけ確かめて
周りとうまくアジャストしていく。

そうやってちょっとずつ大きな動きに
自分も関わって行けたらと思う。


2008.2.6

明日死ぬって時に最後に言いたい・残したい言葉を考えた。

僕のちっぽけな人生にだって多少の戦利品はある。
人の役にすぐに立ちそうなものや、為になりそうなもの、
ある一人に向けた言葉や、他人や家族への感謝や謝罪。
その中の一番ってやつを選んでみた。

一番は実はすぐに出てきた。
それは他人が聞けばただのオノロケ話・自慢話。
アンナさんへの感謝と言うか、なぜ僕がアンナさんをお嫁さんに選んだかっていう話だ。
実際、アンナさんは僕にとって唯一僕が手に入れたスガタ・カタチのある戦利品だ。
そして唯一真剣に選んで、そして真剣にほしいと思って手に入れた戦利品だ。

アンナさんってのは、とにかく真っ直ぐな人で裏表が全くない完全に信用できる人なんです。
女性であることを武器にしたり盾にしたりしない潔い人です。
チャーミングさ自然に持っている人です。
自分が弱っているとこを見せて人の気を引いたりするようなネガティブな人でなく、
いつもポジティブな人です。
ユーモアを知る知的な人です。
海よりも深い情を持つ人です。
いつも一緒にいて楽しくなる人です。
いつもいろんなことを考えながら生きているクリエイティブな人です。
忍耐って言葉が嫌いと言い切れる人です。
とにかく尊敬できる人です。

こんなアンナさんを手に入れたことを自慢して死んでいけたら幸せじゃないかと思う。


2008.2.5

音楽を聴くことは美味しい料理を食することと同じだと思う。
この歳になって日本食のあっさりとした繊細な味が分かってくるのと同じように
ある程度の経験を積んだ人たちにこそ届くような音というのがあるのだと思う。
これ見よがしの強い刺激ではなく、滋味に溢れるような音
そんな普通で当たり前に良い音・音楽。
同じ野菜でも有機栽培のそれの方が味が濃く感じるような
そんな微妙な手間のかけかた・素材の違いが料理にも音楽にも味わいに奥行きを持たらす。
ライブでの会場の音が良いっていうのはそういうことだと思う。
そして良い素材が料理人の創作意欲を掻き立てるように、
音が良いことが音楽家にまた新しい刺激をもたらす
そんな循環がこの場所で起こったらいい。


2007.12.26


2007.12.25


2007.12.18


2007.12.11